補陀山昌林寺|江戸六阿弥陀の木残、北豊島三十三ヶ所、上野王子駒込辺三十三ヶ所
昌林寺の概要
曹洞宗寺院の昌林寺は、補陀山と号します。昌林寺の創建年代等は不詳ながら、応永8年(1401)に足利持氏が再建して寺号を補陀楽壽院から祥林寺と改めたといいます。文明11年(1479)には太田道灌から寺領寄附を受けたものの、その後罹災、勝庵宗(天文13年1544年寂)が中興し寺号を昌林寺と改めたといいます。江戸六阿弥陀巡礼の木残、北豊島三十三ヶ所霊場19番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場5番札所です。
山号 | 補陀山 |
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院号 | - |
寺号 | 昌林寺 |
住所 | 北区西ケ原3-12-6 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 江戸六阿弥陀の木残、北豊島三十三ヶ所霊場19番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場5番札所 |
昌林寺の縁起
昌林寺の創建年代等は不詳ながら、応永8年(1401)に足利持氏が再建して寺号を補陀楽壽院から祥林寺と改めたといいます。文明11年(1479)には太田道灌から寺領寄附を受けたものの、その後罹災、勝庵宗(天文13年1544年寂)が中興し寺号を昌林寺と改めたといいます。
新編武蔵風土記稿による昌林寺の縁起
(西ヶ原村)昌林寺
禅宗曹洞派橋場總泉寺末、補陀山と號す、古は補陀楽壽院と號せしを應永十八年足利持氏再營して祥林寺と改め、文明十一年太田道灌田園二十四町を寄附せり、其後大永五年丙丁に罹りし後本山四世勝庵宗最中興して今の文字に改む、此僧は天文十三年七月十五日寂す、本尊正観音は行基の作にて、六阿彌陀彫刻の時同木の末木を以てこの像を作りしゆへ、末木の観音と號と云、昔は本堂の造りも壮厳を盡せしにや、今の堂に用る所の扉獅子牡丹桐鳳凰等の彫刻最工にして、近世のものにあらず是左甚五郎の作にて先年火災の時僅に残りしものと云。
大鐘。寛政七年再鑄の鐘なり。
禅堂。(新編武蔵風土記稿より)
「北区史」による昌林寺の縁起
昌林寺(西ヶ原)
西ヶ原町三百二十二番地に在る。曹洞宗に属し江戸時代は総泉寺末で、震災後は芝棈松寺の末となつた。補陀山と称し古は補陀落寿院と称したが応永十八年足利持氏母堂の帰依により再営し昌林寺と改め、文明十八年太田道灌は田園若干を寄進したと伝えられているが詳細は不明である。恐らく足利時代草創になるものであろう。本尊は末木観音と称し、六阿弥陀に用いた末木を以て彫刻したと伝えられて居て末木観音堂とも称されている。同寺後庭に貝塚があつて有名だが、その辺に、文明十七年八月と、大永八年閏九月三日との板碑がある、この両板碑は寛政十二年の頃江戸下谷坂本村高岩寺で池を穿つた際池中から出たもので後此寺に移したものと云う。(文明のは十夜念仏供養のもの、大永のは庚申待供養のものである。)また江戸砂子に昌林寺の關と題した記事があつて、かつて関所のあつた所と記されている恐らく中世ムッシの通行の為税をとつたのであろうが、よく判明しない。戦災にあつて堂宇残らず焼失し、まだ恢復していない。(「北区史」より)
昌林寺所蔵の文化財
- 西ヶ原貝塚(東京都指定文化財)
昌林寺の周辺図