亀戸天神社|東宰府天満宮、東京十社、東都七福神
亀戸天神社の概要
亀戸天神社は、江東区亀戸にある天神社です。亀戸天神社は、正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官だった菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)が創立、本社にあたる九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されていましたが、明治6年に准勅祭神社に指定され東京十社のひとつとなり、昭和11年に現在の亀戸天神社となったといいます。東都七福神の一つです。
社号 | 亀戸天神社 |
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祭神 | 天満大神 |
相殿 | 天菩日命 |
境内社 | 御嶽神社、弁天社、花園社 |
住所 | 江東区亀戸3-6-1 |
備考 | 准勅祭神社東京十社 |
※御朱印はいけみずさんより寄贈
亀戸天神社の由緒
亀戸天神社は、正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官だった菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)が創立、本社にあたる九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されていましたが、明治6年に准勅祭神社に指定され東京十社のひとつとなり、昭和11年に現在の亀戸天神社となったといいます。
「江東区の民俗城東編」による亀戸天神社の由緒
明治初年の神社明細帳(東京都公文書館蔵)によれば、開基別当大僧都法印菅原信祐は正保三年(一六四六)二月、夢中に神詠の句に感ずる事有り、太宰府天満宮前の飛び梅をもって神像を刻み笈に納めて、諸国を巡歴し、心にかなう地がなく、ついに武蔵国に至る。明暦の大火のために江戸の地の大半が焼土となり、下総国葛飾郡を割いて武蔵国に加え、本所の地を開発しようとした時だった。そのとき、庄屋に願い亀戸村に古来存する天神の石詞に仮の社殿を設け、初めて祭祀奉仕した。その後、新たに徳川家綱より荒蕪地を賜り、太宰府に模して社殿を造営した。これが現在地の社になるという。
文政一一年(一八二八)に成立した『新編武蔵風土記稿』巻之二四によれば、信祐が亀戸村に天満宮の小雨を祀ったのは寛文元年(一六六一)八月二三日であり、当時の本所築地奉行は徳山五兵衛・山崎四郎左衛門だった。信祐が一里四方の土地を賜ったのは、寛文二年二月一九日で、神殿以下反橋心字の池など悉く太宰府の社に擬して作ったのは寛文三年であり、その年の八月に初めて行われた祭礼の儀式も太宰府の例にならい神輿渡御がなされ、寛文九年に信祐は京都に上り、亀戸天神の図を後水尾法皇に奉り、法皇より菅神尊号の宸筆を賜った。また、江戸期の別当は東安楽寺であり、天原山聖廟院と号し、開祖は大鳥居信祐であったという。『太宰府天満宮』によれば、寛文元年八月二三日に、太宰府天満宮社人大鳥居信祐が太宰府の神霊を武蔵国本所亀戸村に勧請し、元禄二年(一六八九)、宰府留主大鳥居信兼は江戸亀戸の大鳥居信祐と兄弟の契りをかわしている。
明治維新の際に、東安楽寺や仏堂を廃し、明治五年に府社となる。『東京都神社名鑑』によれば、昭和二〇年三月の大空襲により、神庫を除き一切を烏有と帰し、戦後、前田家江戸屋敷邸内社を譲り受け本殿とし、昭和三六年に鎮座三百年を記念として拝幣殿などを再建し、昭和五四年に御神忌千七十五年大祭記念事業として本殿を再興し、昭和五六年に社務所を建設した。(「江東区の民俗城東編」より)
「江東区の民俗城東編」による境内社御嶽神社の由緒
社前の由緒書によれば、法性坊は道真公の教学、御所の師で、道真公薨去の後は太宰府天満宮の社殿造営に関わられ、太宰府社前に一念三千の心字池を構え、三世一念の太鼓橋を架けるなど道真公との関係は深く、亀戸天神社においても寛文九年(一六六九)一一月二一日に九州太宰府御嶽山より勧請された。法性坊は奇特多い高僧として知られ、天慶三年(九四〇)二月の卯の日卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎える「卯の神」として敬仰された。以来、毎月の卯日、特に正月の初卯日には陽気を迎えるはじめとして卯槌、卯の神札が求められ、福徳才知、愛敬を願い、除病・延命を祈るものとされた。
法性坊尊意は第一三世の天台座主であり、北野天神絵巻にも登場する人物であり、公没後、南無天満大自在天となり一六万八千の悪神をしたがえて内裏に入ろうとしたところ法性坊の法力で止められという霊力があり、天神を押しとどめる力がある人物とされ、太宰府天満宮の境内にも祀られている。
また、上州妙義山でも法性坊を祀るため、いつとはなくこの亀戸の法性坊の堂を妙義権現などとも呼ぶようになり、江戸時代には年の吉凶を占う妙義山の巫女たちが社前に並び妙義大権現の託宣などもするようになったという(亀戸妙義権現勧請の事『事跡合考』)。『東京都神社名鑑』によれば、御嶽神社は亀戸天神別当の玄関辺りに元はあったが、延宝五年(一六七七)に天神社の境内地内に移転した。寛延二年(一七四九)に造成された社殿は戦災で焼失し、昭和三六年の本社復興後は旧本社の拝殿・本殿を御嶽神社の本拝殿とし、菅原道真公神忌千七十五年大祭記念事業として昭和五一年に建造されたという。(「江東区の民俗城東編」より)
亀戸天神社所蔵の文化財
- 石造燈籠(塩原太助奉納)(江東区登録文化財)
- 石造燈籠(大正2年在銘)一対(江東区登録文化財)
- 石造鳥居(弘化2年在銘)(江東区登録文化財)
- 石造燈籠(明治35年在銘)一対(江東区登録文化財)
- 石造燈籠(大正5年在銘)(江東区登録文化財)
- 石造燈籠(明治35年在銘)一対(江東区登録文化財)
- 石造燈籠(明治35年在銘)(江東区登録文化財)
- 石造燈籠(明治40年在銘)一対(江東区登録文化財)
- 石造燈籠(明治35年在銘)一対(江東区登録文化財)
- 絹本着色束帯天神像(江東区登録文化財)
- 鉄造天水桶(増田栄相作9一対(江東区登録文化財)
- 中江兆民翁之碑(江東区登録文化財)
- 聖廟九百年御忌句碑(江東区登録文化財)
- 歌川豊国翁之碑(江東区登録文化財)
- 帰春翁筆塚(江東区登録文化財)
- 董斎筆塚(江東区登録文化財)
- 花仙堂筆塚(江東区登録文化財)
- 正木樸筆塚(亀田鵬斎書)(江東区登録文化財)
- 花鳥図碑 岸駒・曲江画(江東区登録文化財)
- 石川勝蔵歌碑(江東区登録文化財)
- 八百万神碑 男谷静斎書(江東区登録文化財)
- 燈籠(松平康任奉納)一対(江東区登録文化財)
- 松庵句碑(江東区登録文化財)
- くんきょ先生碑(江東区登録文化財)
- 鮮斎永濯碑(江東区登録文化財)
- 梅松両社再建発句碑(江東区登録文化財)
- 菅原白竜画師献技碑(江東区登録文化財)
- 臥龍園句碑(江東区登録文化財)
- 累卵塔碑(江東区登録文化財)
- 藤樹奉献碑 大正4年在銘(江東区登録文化財)
- 明楽斎修筆碑 明治29年在銘(江東区登録文化財)
- 鷽替由来板木 大正5年在銘(江東区登録文化財)
- 鍾珠山人玉光句碑 弘化2年在銘(江東区登録文化財)
- 燈籠(残欠) 文政2年在銘(江東区登録文化財)
- 亀戸神社縁起碑 大正12年在銘(江東区登録文化財)
- 頌徳碑 明治28年在銘(江東区登録文化財)
- 菅公一千年祭記念碑 明治35年在銘(江東区登録文化財)
- 菅公一千年祭記念碑(江東区登録文化財)
- 菅公一千年祭記念境内全図銅板寄附碑(江東区登録文化財)
- 菅廟種梅碑 明治35年在銘(江東区登録文化財)
亀戸天神社の周辺図