仙気稲荷神社|当地開墾の際に鎮守として創建
仙気稲荷神社の概要
仙気稲荷神社は、江東区南砂にある稲荷神社です。仙気稲荷神社は、万治2年(1659)に当地開墾の際に鎮守として創建、大智稲荷又は砂村稲荷と称したといい、腰より下の煩い(疝気)に霊験ありと評判だったといいます。都営住宅建設に伴い、昭和42年習志野へ遷ったものの、地域住民による保存会により再建・維持されているといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命、須佐之男命、大市比売命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 江東区南砂3-4-2 |
備考 | - |
仙気稲荷神社の由緒
仙気稲荷神社は、万治2年(1659)に当地開墾の際に鎮守として創建、大智稲荷又は砂村稲荷と称したといい、腰より下の煩い(疝気)に霊験ありと評判だったといいます。都営住宅建設に伴い、昭和42年習志野へ遷ったものの、地域住民による保存会により再建・維持されているといいます。
境内掲示による仙気稲荷神社の由緒
仙気稲荷神社
この付近には以前砂村稲荷神社があり、文化・文政(1804-29)の頃から疝気の病(おもに下腹痛)に霊験のある「砂村の疝気稲荷」として栄えました。
昭和42年(1967)千葉県習志野市へ移転し、当地に稲荷小祠が建てられました。南砂7丁目の富賀岡八幡宮の境内裏手にある力石はこの時に移されたもので、この中には、力持ちの有名人扇橋三次郎の名前もみられます。(境内掲示より)
「江東区の文化財城東編」による仙気稲荷神社の由緒
仙気稲荷神社(南砂3−4−2)
「神社明細帳」によれば、万治二年(一六五九)当所開墾の際、村中安全五穀豊穣を祈願のために祀ったという。『南葛飾郡神社要覧』によれば、大智稲荷又は砂村稲荷と称し、万治二年五穀豊穣熱病消除のために当地開墾のときに海岸堤に祀るという。神職荒井家に残る由来記に、江ノ島明神奥の院を波除のために堤に遷座し、祭神は大市比売命、穀神稲倉魂、むらの病除けのため須佐之男命を勧請した。大市比売稲荷とも大智稲荷とも称した。開発成就、五穀成就のために万治年間(一六五八~六一)に社頭に柴燈護摩を修行した。ここは修験草々の地であった。文政八年(一八二五)に長州藩の抱屋敷となり、稲荷の社地八〇〇坪の地税を除かれ、社殿・祈願料も寄付され、その後、この地は川越城主松平大和守に譲られ、長州家から口達申次があり、境内地の一般地税が除かれた。次いで雲州松平少将に譲られ、松平斉貴はことのほか信仰され神前に燈寵を一対奉納されたという。この社は長州藩・川越藩・松江藩などの抱屋敷地となり、各武家から深く信仰されていたようである。『松江市史』によれば、松平斉貴は文化一〇年(一八一三)に生まれ、文政五年(一八二二)に藩主となり、嘉永六年(一八五三)まで治め、鷹狩りを好み弘化二年(一八四五)に砂村新田数千町の屋敷を買い上げたという。鷹狩りのための屋敷が砂村稲荷の地であった。
文化年間(一八〇四~一八)に出された『遊歴雑記』の初編之下四一に「砂村新田大知稲荷大明神」として、大知稲荷は砂村新田の川端より入り、ネギ畑の畦を経て、南側波除堤の際にあり、幟等四五本立て粗末な仮官で、疝気の願いが叶う稲荷と言い伝えられ、男女とも腰より下の煩いは何でも疝気として、願えば噸と平癒すると噂していたという。『武江年表』によれば、文化年間に砂村王地稲荷社へ、疝癪を患う者祈願して、霊験を得るということで参詣することが始まった。大知稲荷は細川家の下屋敷庭普請があり、植木屋の奉納で稲荷の社頭を庭のようにつくり、一般のものも見られるようにしたという。文政八年(一八二五)に毛利家より疝気稲荷神職への書き付けが残っており、そこには、長次郎、佐平次、長七所持の畑屋敷建星を譲り受け、抱屋敷とするとある。長次郎所持の疝気稲荷社は諸人の信仰を集めているので、これは除く。参詣人に不都合がないように取り計らう。祭礼などをするときは一応屋敷に届けるようにと記されていた。
昭和二〇年の戦災で社殿を焼失し、一時仮宮が建てられたが、昭和四二年にそれまでの神職が習志野市に転出し、跡地に都営住宅が建てられた。昭和四五年、残された者たちが再度仙気稲荷神社を再建し、保存会を結成し維持している。(「江東区の文化財城東編」より)
仙気稲荷神社の周辺図