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芭蕉稲荷神社|江東区常盤の神社

芭蕉稲荷神社の概要

芭蕉稲荷神社は、江東区常盤にある稲荷神社です。芭蕉稲荷神社は、大正6年の津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷が創建され、大正10年東京府により常盤一丁目が旧跡に指定されたといいます。当社の近くには、江東区芭蕉記念館分館があります。

芭蕉稲荷神社
芭蕉稲荷神社の概要
社号 芭蕉稲荷神社
祭神 宇迦魂命
境内社 -
祭日 -
住所 江東区常盤1-3
備考 -



芭蕉稲荷神社の由緒

芭蕉稲荷神社は、大正6年の津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷が創建され、大正10年東京府により常盤一丁目が旧跡に指定されたといいます。

江東区掲示による芭蕉稲荷神社の由緒

ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝八年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べてば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の贈った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄七年(1694)に至る十五年間に三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。
第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝八年冬から、天和二年暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ三年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
櫓の声波ヲ打って腸氷ル夜や涙
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
天和三年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、五十三名の寄謝を得て、「本番所森田惣左門御屋敷」の内に第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが二つ、茶碗が十個と菜刀一枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」の旅はここから旅立った。
古池や蛙とびこむ水の音
花の雲鐘は上野か浅草か
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
元禄二年(1689)「おくのほそ道」の旅立りの際手離された旧庵の近くに、元禄五年五月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の趣があった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。
名月や門に指し来る潮頭
川上とこの川下や月の友
秋に添うて行かばや末は小松川
芭蕉庵の所在地は、元禄十年松平遠江守の屋敷となり、翌十一年には、深川森下町長慶寺門前に、什器もそのまま移築されたようである。(江東区掲示より)


芭蕉稲荷神社所蔵の文化財

  • 深川芭蕉庵旧地

深川芭蕉庵旧地

俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、まだここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。
しかし、当初が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。(芭蕉遺蹟保存会掲示より)


芭蕉稲荷神社の周辺図


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