龍眼寺|萩寺、亀戸七福神布袋尊
龍眼寺の概要
天台宗寺院の龍眼寺は、慈雲山無量院と号します。応永2年(1396)良博大和尚が柳源寺と号して創建したと伝えられます。境内の萩は江戸時代から著名で、萩寺と称されるほど著名でした。亀戸七福神の布袋尊として有名です。新葛西三十三所観音霊場6番です。
山号 | 慈雲山 |
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院号 | 無量院 |
寺号 | 龍眼寺 |
住所 | 江東区亀戸3-34-2 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 亀戸七福神の弁財天、江東天祖神社のもと別当 |
龍眼寺の縁起
龍眼寺は、応永2年(1396)良博大和尚が柳源寺と号して創建したと伝えられます。境内の萩は江戸時代から著名で、萩寺と称されるほど著名でした。
新編武蔵風土記稿による龍眼寺の縁起
(柳嶋村)龍眼寺
天台宗江戸浅草東光院末、慈雲山無量院と号す。本尊正観音、長1尺5寸許、立像にて、傳教大師の作。開山良傳、応永15年寂。境内に萩数十株を培養して、中秋開花の頃は遊観の人多し。故に里俗当寺を萩寺と呼ぶ。この萩は元禄6年始て栽し、其後中絶せるを明和7年住持義海更に栽ませしより、今に至りいよいよ繁茂すと云。
太子堂
天神を相殿とす。太子自作の像にして長2尺5寸許。
鐘楼、明和4年鋳造の鐘を掛。
仁王門(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による龍眼寺の縁起
応永2年(1396)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。
その後現在の「龍眼寺」と改められた。
御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道(八正堂)とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。(境内掲示より)
江東区掲示による龍眼寺の縁起
龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。(江東区掲示より)
「江東区の民俗城東編」による龍眼寺の縁起
『帝都郊外発展誌』城東の巻亀戸編によれば、この寺は応永二年(一三九五)澤良和尚の開基。澤良和尚は千葉氏の一族で新田良興の遺臣。幼くして沙門に入り、諸国を巡錫して此地を過ぎ柳樹の下に草庵を結び、柳源と称し、応永一〇年に坊合をなし、龍眼寺と号したのがこの寺の始まりという。
寺の由緒書(「龍限寺について」)によれば龍限寺が萩寺とも呼ばれるようになったのは、元禄時代に中興元珍大和尚が全国から数十種類の萩をこの寺に集め、其の数も幾千株に達し、江戸名所として有名になったためである。多くの文人墨客が龍限寺を訪れ、その様子は『江戸名所図会』や『再校江戸砂子』にも載せられた。『新編武蔵風土記稿』巻之二四によれば、「萩は元禄六年始めて栽し、其後中絶せるを明和七年住持義海更に栽ませし」という。境内にある芭蕉の句「濡れて行人もをかしや雨の萩」は元禄二年(一六八九)に石川県小松の俳人歓生宅で吟じられたものであり、句碑が龍限寺に建てられたのは明和八年(一七七一)である。発句から建碑まで七〇年くらい間がある。建碑は龍限寺に再度萩を植え始められた時期の直後であり、関連性がうかがえる。現在、隔月に萩の舎句会が開催されるという。(「江東区の民俗城東編」より)
龍眼寺所蔵の文化財
- 石造燈籠明治32年在銘一対(江東区登録文化財)
- 木像聖観音菩薩立像
- 芭蕉句碑絢堂素丸書
- 冬嶺市町句碑
- 百寿句碑
- 螺舎一堂句碑
- 万治2年銘庚申塔
- 水盤天明5年在銘
- 六角石塔
- 融通念仏供養像台石正徳5年在銘
- 水盤延享2年在銘
- 法華経五千部供養塔 享保18年在銘
- 納経塚文化3年在銘
- 阿弥陀供養塔元禄9年在銘
- 如意輪観音供養塔寛文6年在銘
- 六十六部廻国供養塔宝永8年在銘
龍眼寺の周辺図