蟠龍山長慶寺|徳山五兵衛重政を中興開基
長慶寺の概要
曹洞宗寺院の長慶寺は、蟠龍山天寿院と号します。長慶寺は、越後村上の霊樹山耕雲寺二三世一空全鎖大和尚を勧請開山として、二世大事不安大和尚が創建、万治三年(1660)本所奉行徳山五兵衛の差配により境内地が除地となったことから、徳山五兵衛重政を中興開基とするといいます。松尾芭蕉翁句塚碑や宝井其角(宝晋斎)墓、盗賊日本左衛門の墓がありました。
山号 | 蟠龍山 |
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院号 | 天寿院 |
寺号 | 長慶寺 |
住所 | 江東区森下2-22-9 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長慶寺の縁起
長慶寺は、越後村上の霊樹山耕雲寺二三世一空全鎖大和尚を勧請開山として、二世大事不安大和尚が創建、万治三年(1660)本所奉行徳山五兵衛の差配により境内地が除地となったことから、徳山五兵衛重政を中興開基とするといいます。
長慶寺の縁起
長慶寺
深川孫右衛門夫妻より、越後村上の霊樹山耕雲寺二三世一空全鎖大和尚を開闢開山に勧請し、当山二世大事不安大和尚布延するという。古来、楠の老木が林立していたので楠寺とも呼ばれ、庵のころ、三代将軍家光が鷹狩りの際立ち寄り、その縁で三の丸普請の残木を貰い受け寺を建立したというので残木山とも呼ばれていたという。また、開創より三一年後、万治三年(1660)、時の本所奉行徳山五兵衛の差配により寺地が除地となり、徳山家を中興開基とする(「江東の禅窟 曹洞宗蟠龍山天寿院長慶寺」)。
この寺には亀戸天神の宮司大鳥居家の墓があり、言い伝えによると、亀戸天神の初代と長慶寺の初代がともに同じ時期に江戸で布教をして、互いに励まし合っていた。その緑でこの寺に亀戸天神の宮司の墓があるという。
元禄七年(1694)に芭蕉が難波で亡くなったのを聞いて、江戸の門人杉風・其角などが翁を江戸で弔うために落歯・発句を埋め塚をこの寺に建て、のちに、其角や嵐雪などの碑が建てられた(「御府内備考続編」)。芭蕉の碑を含めて、宝晋斎其角墓・玄峰嵐雪居士・松籟庵太無居士・二世松籟庵霜後居士・麦林舎乙由居士・守黒庵眠柳居士の石碑があったという(「東都古墳志」)。この時雨塚、もしくは短冊塚は戦災で損傷し、現存するのは台石のみであるという。
大正三年(1914)、第二二世一峰弥天大和尚は墓地改葬の大決断をもって、位牌堂兼納骨堂を建立した。当時、納骨堂は珍しかったという。間口六間半、奥行き七間半、瓦葺き、寄せ棟土蔵風煉瓦造りであったが、大震災で倒壊し、その後、復興したコンクリート造りも大空襲のときに、明かり取り窓から焼夷弾が入り、内部が焼失してしまったという。なお、本堂前には戦災者慰霊碑に並んで、昭和五六年に起きた深川通り魔事件遭難者の慰霊地蔵尊が祀られている。(江東区の民俗深川編より)
長慶寺所蔵の文化財
- 絹本着色釈迦十六善神像(江東区指定文化財)
- 絹本墨画淡彩虎十二態図 岸駒筆 四曲一隻・六曲一隻・軸二幅 附木箱一合(江東区登録文化財)
- 芭蕉翁句塚碑拓本(江東区登録文化財)
- 芭蕉翁句塚跡(江東区登録文化財)
- 日本駄右衛門墓跡(江東区登録文化財)
- 東京府小学第六校跡(江東区登録文化財)
絹本着色釈迦十六善神像一幀
この釈迦十六善神像は、本紙を幀貼装にしたものです。本紙は縦一一四・八cm、横五七・三cm。幀貼装は縦一三八・九cm、横七三・九cmです。
十六善神とは、「大般若経」およびその経の受持者を守る十六種の守護神です。釈迦十六善神像は、鎮護国家・除災招福のため宮中や諸大寺において行われた「大般若経」を転読する大般若会の本尊として祀られました。仏画としては基本的なものえ、平安時代末からみられますが、特に鎌倉時代から室町時代にかけて多く描かれ、全国に作例が残されています。
画像は、蓮華座に坐す釈迦如来を中心に、その左右に獅子に乗る文殊菩薩と白象に乗る普賢菩薩、法涌菩薩と常啼菩薩、経巻を積んだ笈を背負う玄奘三蔵と鬼神形の深沙大将を対にして並べ、その外側に十六善神を二分して配置しています。
本像は、描線の力強さや、迫力のある造形性、濃厚で鮮やかな彩色などから腿山時代後期から江戸時代初期のものと推定されます。中世にまでさかのぼる作例がほとんどみられない江東区にとって貴重な作品といえます。(江東区教育委員会掲示より)
長慶寺の周辺図