江古田古戦場跡|太田道灌と豊島泰経が合戦した地
江古田古戦場跡の概要
江古田古戦場跡は、中野区松が丘にある名所旧跡で江古田公園内にあります。江古田古戦場跡は、文明8年(1476)の長尾景春の乱に際して、翌文明9年(1477)太田道灌と豊島泰経が当地で合戦した地だといいます。
名称 | 江古田古戦場跡 |
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みどころ | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | 無料 |
住所 | 中野区松が丘2-35江古田公園内 |
備考 |
江古田古戦場跡
江古田古戦場跡は、文明8年(1476)の長尾景春の乱に際して、翌文明9年(1477)太田道灌と豊島泰経が当地で合戦した地だといいます。
中野区教育委員会掲示による江古田古戦場跡について
このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(一四七七)太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。
ここでの合戦は、享徳の乱(一四五四-一四八二)という長期にわたる内乱の中での戦でした。
享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。
この乱により関東は二分され、幕府などの支援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。
ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立するうえで、大きな意味をもっていました。(中野区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による江古田古戦場跡について
(江古田村)古戦場
「鎌倉大草紙」に云、文明八年四月十三日太田道灌江戸より打て出、豊嶋平左衛門が平塚の堀を取巻、城外を放火して帰りける所に、豊嶋が兄勘解由左衛門を頼ける間、石神井・練馬の両域より打て出攻来りければ、太田道灌・上杉刑部少輔・千葉自胤以下江古田原沼袋と云所に馳向ひ、合戦して敵豊嶋平左衛門を初として、板橋・赤塚以下百五十人打死すと云々、又「鎌倉九代後記」等にも此ことをのす、思ふに平左衛門を初めあまたの者當所にて討死せしことなれば、古は人家も稀にして渺々たる原野なるべし、されば古戦の跡と云所傳はるべき者なるゆへ、土人に尋るに其所を辨せず。(新編武蔵風土記稿より)
江古田古戦場跡の周辺図