慈雲山龍興寺。明治41年当地へ移転
龍興寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の龍興寺は、慈雲山と号します。龍興寺は、玄門道幽和尚が寛永6年(1629)牛込に創建、承応3年(1654)小日向に移転したといいます。明治41年(1908)当地へ移転しました。
山号 | 慈雲山 |
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院号 | - |
寺号 | 龍興寺 |
住所 | 中野区上高田1-2-12 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍興寺の縁起
龍興寺は、玄門道幽和尚が寛永6年(1629)牛込に創建、承応3年(1654)小日向に移転したといいます。明治41年(1908)当地へ移転しました。
東京名所図会による龍興寺の縁起
龍興寺
小日向水道町九十番地にあり、慈雲山と號す、禅宗妙心寺末、開山玄門和尚。當寺に法華経文の五百羅漢並に釈迦文殊塔五十餘幅の画軸あり。
東都歳時記(春)正月十六日の條に云、小日向服部坂龍興寺に、法華経の文字を以て画る五百羅漢並に釈迦文殊普賢観音塔五十餘幅の画軸を掲る。
幅母に十人、陪侍の者は数ふべからず、堂閣岩壑泉池草木鳥獣に至るまで一句一画、幟にして綫の如く、微にして塵の如きもの、みな経文を連らねてこれを圖し、着色を施すものまた経文なり、凡妙経一部餘巻を以て書する所にして、府中の小吏加藤氏藤原信清といふ人の筆なり、此加藤某は享保十九寅仲冬江城に誕し、長するに及んで丹青を好んで狩野玉燕に学び、其業世上に鳴れり、元より名利をこのまずして、貴戚権門招けどもいたらず、薙髪して自ら栖霞亭と號す、天明の頃此五百應真の像を画ん事を發起し、寛政八年に至て成就し、當寺に停む、文化七年七十七にして老病に罹り、痊ずして終に帰寂す、是より先前南禅大典禅師、當寺現住天啓和尚に代りて其顛末を記せらる、今當寺に傳へて什寶とす、禅師の記文尤絶妙なり、事長ければ茲に略す。(東京名所図会より)
龍興寺の周辺図