専念山正見寺。明治42年当地へ移転
正見寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の正見寺は、専念山壽光院と号します。正見寺は、滋賀県栗田郡駒井城主・駒井掃部介高植、次代右近大夫宗高が菩提のため、応永年間(1394-1427)に寺院を建立、祐淳(寛正4年1464年寂)が開山したといいます。祐念了順(元禄5年1692年寂)が寛永5年(1628)江戸に上京、赤坂一ツ木に中興開山したといいます。四谷仲町への移転を経て、寛文7年(1667)元鮫河橋伊賀衆領百姓地へ移転、明治42年当地へ移転したといいます。
山号 | 専念山 |
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院号 | 壽光院 |
寺号 | 正見寺 |
住所 | 中野区上高田1-1-10 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正見寺の縁起
正見寺は、滋賀県栗田郡駒井城主・駒井掃部介高植、次代右近大夫宗高が菩提のため、応永年間(1394-1427)に寺院を建立、祐淳(寛正4年1464年寂)が開山したといいます。祐念了順(元禄5年1692年寂)が寛永5年(1628)江戸に上京、赤坂一ツ木に中興開山したといいます。四谷仲町への移転を経て、寛文7年(1667)元鮫河橋伊賀衆領百姓地へ移転、明治42年当地へ移転したといいます。
「四谷區史」による正見寺の縁起
専念山壽光院正見寺と競した、西本願寺末の真宗である。元鮫河橋南町に所在し、境内は借地で百九十二坪であつた。起立は古く應永年間と傳へ、江州栗田郡駒井城主駒井掃部介高植及び同右近大夫宗高の建立した所であったといふ。寛永頃江州を退き江戸に来り、赤坂に於て江戸正見寺を建立した、實に寛永五年のことであった。明暦元年用地となり、二年四谷仲町湖雲寺境内へ引地し、その後寛文七年元鮫河橋伊賀衆領百姓地へ借地したのであった。寺競は公邊向は正見寺、本山では永願寺と稱してゐた。永願寺は檀家のない寺で正見寺に合併したのである。
開山祐淳は寛正四年五月三日に寂し、開基駒井氏の死去年月は明かでない。中興開山祐念了順は俗名宗興、元禄五年正月八日に寂した。本掌阿彌陀如来は、遠く江州駒井氏より傳へたものだといふ。鮫河橋名主記録には萬治二年より湖雲寺門前に在り、寛文六年鮫河橋に借地したとある。(「四谷區史」より)
「中野区寺院案内」による正見寺の縁起
応永の中期、江州栗田郡駒井城主・駒井掃部介高植、次代右近大夫宗高が菩提のための寺を建立した。
その後、15代の子・祐念了順出家し、寛永5年に江戸赤坂ーッ木に正見寺を建立する。
その後、江戸城外壕御用となり明暦3年四ッ谷南元町に移転するも、明治42年に日本博覧会の開催予定により、現在の中野に再移転した。昭和20年、第二次大戦の戦災により堂宇は灰塵に帰したが、昭和46年本堂を再建し現在に至る。
墓地には、明和時代に江戸三美人の第一といわれた笠森お仙の墓がある。(「中野区寺院案内」より)
正見寺の周辺図
参考資料
- 「中野区寺院案内」(中野区佛教連合会)
- 四谷區史