妙福寺|練馬区南大泉にある日蓮宗寺院

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西中山妙福寺|日高・日祐上人の巡錫、幕府より寺領21石の御朱印城

妙福寺の概要

日蓮宗寺院の妙福寺は、西中山と称します。妙福寺は、もと慈東山大覚寺と称し、天台宗の寺院として、嘉祥3年(850)に草創、鎌倉時代に中山法華経寺歴代の日高・日祐上人の巡錫に会い、元亨2年(1322)日祐上人により、法種山妙福寺として日蓮宗に改宗したといいます。改宗した日延から三代後は、代々法華経寺の貫頂が住職を勤めたので西中山と通称するようになったといいます。天正年中(1573-1591)以降歴代将軍から21石余の御朱印を賜り、大乗院本応院法性院善行院本立寺を塔頭に擁していました。

妙福寺
妙福寺の概要
山号 西中山
院号 -
寺号 妙福寺
住所 練馬区南大泉5-6-56
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 塔頭本応院で、一般に葬儀利用を開放
備考 妙福寺保育園、タウンテニス大泉学園、陶芸倶楽部併設



妙福寺の縁起

妙福寺は、もと慈東山大覚寺と称し、天台宗の寺院として、嘉祥3年(850)に草創、鎌倉時代に中山法華経寺歴代の日高・日祐上人の巡錫に会い、元亨2年(1322)日祐上人により、法種山妙福寺として日蓮宗に改宗したといいます。改宗した日延から三代後は、代々法華経寺の貫頂が住職を勤めたので西中山と通称するようになったといいます。天正年中(1573-1592)以降歴代将軍から21石余の御朱印を賜っています。

練馬区教育委員会掲示による妙福寺の縁起

当山は、もと慈覚大師(円仁)を開基とする天台宗の寺で、慈東山大覚寺と称し、その開創は嘉祥3年(850)と伝えられています。鎌倉時代に中山法華経寺歴代の日高・日祐上人の巡錫に会い、殊に元亨2年(1322)日祐上人により、法種山妙福寺として日蓮宗に改宗、今日に到りました。(「西中山妙福寺文書」昭和58年刊行)。
天正年間(1573-92)より寺領21石5斗を与えられ、3代将軍徳川家光から14代家茂に至る9通の朱印状(写)も所蔵されています。この地での日蓮宗の中心となり、「西の中山」と称され、現在の山号も「西中山」となっています。
寺域には祖師堂、本堂、仁王門、鬼子母神堂、鐘楼などがあり、庫裡の玄関に残る「からかさ造り」と呼ばれる小屋組は元禄14年(1701)の上棟と伝えられる貴重なものです。(練馬区教育委員会掲示より)

「練馬の寺院」による妙福寺の縁起

「新編武蔵風土記稿」に「妙福寺、村ノ東豊島郡土支田村ヨリ入口ニアリ。法華宗。下総国葛飾郡中山法華経寺末。法種山ト号ス。弘安5年。法華経寺第2祖日高聖人草創ノ地ナレドモ。後住メル僧モナカリシヲ。又カノ寺ノ3祖日祐聖人再建シ。17日ノ説法アリシニ。村内天台宗修験大覚寺ノ住持日延聖人モ。此法筵ニ至リ。深く其宗意ヲ帰依シ。遂ニ改メテコノ宗トナレリ。日祐モに地延聖人ノ知識ヨノツ子ナラザルヲ知リ。当寺ヲコノ聖人ニ譲レリ。今ハ日祐聖人開山トシ。日延聖人ヲ帰伏開山ト称ス。日延ハ永和2年11月11日に寂ス。後天正年中御朱印地21石余ヲ賜リシガ。後回録ニ罹リ。寺モ衰ヘシニ。21世明了院日教聖人堂宇ヲ再造セシユヘ。是ヲ中興開基トス。コノ聖人ハ享保11年11月13日寂セリ。本尊三宝ヲ本堂ニ安ス。往古大覚寺ノ本尊ハ。嘉祥3年創建ノ時。開眼ノ釈迦金仏坐像今モコノ寺ニ収め置タリト云。」とあり、境内堂宇も整い、塔頭として、「大乗院本応院法性院善行院本立寺」の記載がある。
妙福寺は嘉祥3年(850)慈覚大師の草創とされ、慈覚山大覚寺といって天台宗の寺であった。元亨2年(1322)日延は中山法華経寺の折伏を受け、妙福寺を日蓮宗に改修。妙福寺は要法下種山妙福田寺と合併して法種山妙福寺と名のった。妙福田寺は身延山の日蓮の下で修行した日高が、弘安5年(1282)に小榑の里に草創した庵である。日延から三代後は、代々法華経寺の貫頂が住職を勤めたので、「西の中山」と通称するようになった。(以下省略)


妙福寺のもと塔頭・末寺


妙福寺所蔵の文化財

  • 妙福寺文書(一括)(練馬区指定文化財)
  • 妙福寺の梵鐘(練馬区指定文化財)
  • 福徳元年の月待板碑1基(練馬区登録文化財)

妙福寺の周辺図

参考資料

  • 練馬の寺院(練馬区教育委員会)