佐四郎稲荷神社。上尾市原市中の神社

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佐四郎稲荷神社。佐七と四郎の両人が伏見稲荷大社を勧請

佐四郎稲荷神社の概要

佐四郎稲荷神社は、上尾市原市中にある神社です。佐四郎稲荷神社は、慶長年間(1596-1615)に佐七と四郎の両人が京都の伏見稲荷の分霊を勧請して創建したといいます。原市の下町で祀られ、時期不詳ながら蔵王権現社・第六天社・日枝社の三社を合祀、昭和56年の新幹線建設に際し境内・社殿を一新しています。

佐四郎稲荷神社
佐四郎稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 保食命
相殿 -
境内社 -
祭日 3月初午
住所 上尾市原市中1-5
備考 -



佐四郎稲荷神社の由緒

佐四郎稲荷神社は、慶長年間(1596-1615)に佐七と四郎の両人が京都の伏見稲荷の分霊を勧請して創建したといいます。原市の下町で祀られ、時期不詳ながら蔵王権現社・第六天社・日枝社の三社を合祀、昭和56年の新幹線建設に際し境内・社殿を一新しています。

新編武蔵風土記稿による佐四郎稲荷神社の由緒

(原市村)
稲荷社二宇
長久寺の持。(新編武蔵風土記稿より)

「上尾の神社・寺院」による佐四郎稲荷神社の由緒

社伝によれば「佐四郎稲荷神社」と呼ばれ、慶長年間(1596~1615)の創祀という。その後の詳細は不明であるが、昭和56年上越新幹線建設に伴い約5メートルほど社殿を移動し、その機に本殿四囲の柵、幣殿、拝殿を新築した。(「上尾の神社・寺院」より)

「埼玉の神社」による佐四郎稲荷神社の由緒

稲荷神社<上尾市原市二三一四(原市字拾弐番耕地)>
原市は、江戸時代から明治時代にかけて穀物を中心とした物資の集散地として発展し、蔵造りの建物が立ち並ぶ独特な町並みが形成された。この町並みは、主要県道大宮菖蒲線に沿って南北に連なっており北から上新町・上町・中町・下町・下新町の五つの町内に分けられている。当社はそのうちの下町に鎮座する社で、慶長年間(一五九六-一六一五)と伝えられる創建以来、下町の氏神として、また、「商売繁盛の神様」として近在の商家からも広く信仰されてきた。
当社は、通称を「佐四郎稲荷」というが、これは江戸時代に地元の下町に住んでいた「佐七」と「四郎」(四良兵衛ともいう)の両人が京都の伏見稲荷の分霊を勧請して祀ったことにちなむものである。この話に出てくる四郎の末裔が坂巻家で、当主の博で一二代になるという。また、江戸時代には天台宗の長久寺の持ちであり、神仏分離まで同寺によって管理されていた。更に、時期は不明であるが、当社には蔵王権現社・第六天社・日枝社の三社が合祀されている。
なお、当社は元来は小さな祠であったが、老朽化が進んだため、昭和十一年に一間社流造りの立派な社殿が造営された。現在の本殿がそれで、昭和五十六年に行われた上越新幹線の敷設に伴う境内の再整備に際し、その一部が修復されると同時に、拝殿・幣殿などが新築された。こうした経緯により、当社は今日見られる姿になった。(「埼玉の神社」より)


佐四郎稲荷神社所蔵の文化財

  • 原市山車彫刻五基(其の四)(上尾市指定有形文化財)

原市山車彫刻五基(其の四)

原市山車彫刻は、原市の第1区から第5区(かつての上新町、上町、中町、下町、下新町にあたる)に1基ずつ伝わる山車本体を飾る彫刻類である。山車は江戸時代末から明治時代に造られたと推定され、厳密には山車(第1区・第2区)と屋台(第3区から第5区)に分類される。彫刻はケヤキ材で、それぞれ構図が異なり、見事な透かし彫りである。これらは全体的に作風が似ており、第3区の山車彫刻入れの箱に「明治八年」(1875年)とあり、また、その下絵の存在から旧大谷本郷村の宮大工・山田弥吉の作と考えられる。彫刻の取り付け箇所は、正面破風、柱、袖、長押で、図柄は鳳凰、龍、孔雀、獅子、牡丹などである。この山車彫刻は「三・八の市」で栄えた市場集落・原市の景況を今に伝える貴重な文化財となっている。(上尾市教育委員会掲示より)

佐四郎稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)