今泉氷川神社。上尾市今泉の神社
今泉氷川神社の概要
今泉氷川神社は、上尾市今泉にある神社です。今泉氷川神社の創建年代等は不詳ながら、かつて別当寺を勤めていた西福寺の開基が貞治年中(1363-1368)であることや、当社が今泉村・向山村・川村であったことから、当社の創建も室町時代頃ではないかといいます。江戸期には今泉村・川村の鎮守社として祀られ、明治6年には村社に列格していました。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素戔嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | 三峯社、稲荷社、疱瘡社、駒形荒脛日皇社、八雲社、山王社、神明社 |
祭日 | 10月15日 |
住所 | 上尾市今泉148 |
備考 | - |
今泉氷川神社の由緒
今泉氷川神社の創建年代等は不詳ながら、かつて別当寺を勤めていた西福寺の開基が貞治年中(1363-1368)であることや、当社が今泉村・向山村・川村であったことから、当社の創建も室町時代頃ではないかといいます。江戸期には今泉村・川村の鎮守社として祀られ、明治6年には村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による今泉氷川神社の由緒
(今泉村)
氷川社
村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び當村の鎮守なりしが、其後川村及び當村のみの鎮守とす、古は西福寺といへる別當あり、是も今は廢絶せり、貞治年中の起立にして、古跡とのみ傳ふれど、さして證とすべきことなし、この別當廢してより後村内修験、本行院の持。
末社。愛宕社、駒形明神社、稲荷社、天王社、太神社、三峰社、荒脛社。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による今泉氷川神社の由緒
郡村誌に、「向山川村及び当村の鎮守なりしが後川村当村のみの鎮守とす古は西福寺といへる別当あり是も今は廃絶せり貞治年中の起立にして古跡とのみ伝うれどさして証とすべきことなし・・・後村内修験本行院の持」とのす。(「上尾の神社・寺院」より)
「埼玉の神社」による今泉氷川神社の由緒
氷川神社<上尾市今泉一四八(今泉字西)>
今泉の地名は、当社の南方二〇〇メートルほどの所にあった湧水に由来する。この湧水は古くからこの辺り一帯の耕地を潤していた。古くは、当地は川村・向山村・壱丁目村と一村と一村で大谷村と称したという。永禄八年(一五六五)六月二十一日の太田道誉書状写(史籍雑纂)に「今泉分」とあるのが当地の初見となる。
当社は『風土記稿』今泉村の項に「氷川社 村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守なりしが、其後川村及び当村のみの鎮守とす、古は西福寺といへる別当あり、是も今は廃絶せり、貞治年中(一三六三-六八)の起立にして、古跡とのみ伝ふれど、さして證とすべきことなし、この別当廃してより後村内修験、本行院の持、末社、愛宕社、駒形明神社、稲荷社、天王社、太神社、三峰社、荒脛社」と載せる。その創建については、もと当村を含む三か村の鎮守であったとされることから、大谷村と称していた当時の鎮守であった可能性が高く、また別当であった西福寺の開基年代から推して、中世にまでさかのぼるであろう。この西福寺の跡地は当社の東南五〇〇メートルほどの所であると伝える。また、後の別当本行院の跡地は当社の北東二五〇メートルほどの所で、金子隆治家がその裔である。
神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。昭和五十一年には、本殿の屋根を草葺きから銅板葺きに替え、覆屋を新築した。(「埼玉の神社」より)
埼玉県・上尾市掲示による今泉氷川神社の由緒
埼玉県大宮市にある氷川神社を本社とする同一名の神社分布として、「氷川祭祀圏」があり、その多くは元荒川から多摩川地域に分布している。埼玉県一六二社、東京都五九社、茨城・栃木県に各二社、神奈川県・千葉県・北海道に各一の計二二八社がある。氷川神社の祭神は素戔嗚尊・稲田姫命・大己貴命の三神である。いずれも出雲系の神で、古代武蔵の出雲系の首長が祀ったためといわれている。
今泉の氷川神社は緩やかな鴨川低地の右岸台地上の位置し、祭神は素戔嗚命である。本殿は一間社流造で、境内には末社が八坐祀られている。今泉に氷川神社について、「新編武蔵風土記稿」では「村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守(中略)古は西福寺といへる別当あり(中略)この別当廃してより後村内修験、本行院の持」とある。明治のころまで、ここにあった「本行院」と称する金子家が氷川神社を守っていたという。
毎年四月二日の祭礼には神楽を奉納し、五穀豊穣を祈っている。(埼玉県・上尾市掲示より)
今泉氷川神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)