龍渕山妙厳寺。領主西尾隠岐守吉次が再興
妙厳寺の概要
曹洞宗寺院の妙厳寺は、龍渕山と号します。妙厳寺は、大洞尊奝が開山となり字会下山に延徳元年(1489)創建、文禄年間(1592-1596)に領主西尾隠岐守吉次が当地に再興したといいます。
山号 | 龍渕山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙厳寺 |
本尊 | 釈迦如来像 |
住所 | 上尾市原市156 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 妙厳寺幼稚園 |
妙厳寺の縁起
妙厳寺は、大洞尊奝が開山となり字会下山に延徳元年(1489)創建、文禄年間(1592-1596)に領主西尾隠岐守吉次が当地に再興したといいます。
新編武蔵風土記稿による妙厳寺の縁起
(原市村)妙嚴寺
曹洞宗、比企郡市ノ川村永福寺の末、龍淵山と號す、當寺は延徳元年大洞存裔と云僧の開基にして、昔は村の巽の方會下山と云所にありしが、後今の地に移せりと云、存裔は永正十年十月廿日寂す、當寺移轉の年代詳ならずといへど、文禄の頃領主西尾隠岐守吉次再興すといへば、若くは此時のことなるにや、吉次は慶長十一年八月廿六日卒す、境内に墳墓あり、謚して浄徳院天翁梵長居士と云、是遠州横須賀の城主西尾隠岐守が祖なり、本尊は釋迦を安置なせり。
寺寶
鞍一口。黒塗の海なしにて製、様古質なり、前輪に永楽銭の紋を置き、銘に永正二年十月吉日と刻し、左の如き花押を印す、(略之)此餘鐙一雙、長刀一振、鎗一筋あれど、何れも世の常のものなれば略す、以上の四品は隠岐守吉次の所持せしものなりといふ。
薬師堂。薬師は惠心の作と云。
観音堂。正観音を安ず、こは行基の作にて、當寺昔會下山にありし頃の本尊といふ。
稲荷社。
白山社。
鐘樓二ヶ所。一は無銘の鐘にて年代詳ならず。一は寶暦二年の鑄造にて、時を報ずる鐘なり。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による妙厳寺の縁起
「新編武蔵風土記稿」によれば、延徳元年(1489)大洞尊奝(位牌では尊奝)の開山。開山は永正10年(1513)(位牌では15年)10月20日寂。
はじめ字会下山にあったが後現在地に移転。文禄のころ(1592-6)領主西尾隠岐守吉次が再興したというからその時期か。(第5世称外玄讃の時という)12世嘉定功禅の時(この僧元文年間に寂=1736-41)に雷火のため、山門、薬師堂を除き焼失。(「上尾の神社・寺院」より)
上尾市掲示による妙厳寺の縁起
東松山永福寺末の曹洞宗の寺院で、延徳元年(1489)の創建とされています。ここには、上尾市指定文化財「西尾隠岐守一族累代の墓」があり、初代の吉次ゆかりの品、「永楽通宝紋鞍」は県指定文化財となっています。また、原市で開業した医師で、貧困の患者を治療し地域民の絶大な尊敬を受けた伊藤由哉の碑と墓があり、上尾市指定文化財となっています。(上尾市掲示より)
妙厳寺所蔵の文化財
- 永楽通宝紋鞍(付鐙一双)(埼玉県指定文化財)
- 西尾隠岐守一族累代の墓(市指定文化財)
- 伊藤由哉碑と墓(市指定文化財)
永楽通宝紋鞍(付鐙一双)
妙厳寺を再興した西尾隠岐守吉次が所持していたといわれる鞍と鐙である。所在が不明であったが、昭和六〇(1985)年に妙厳寺の薬師堂を解体した際、縁の下から発見された。鞍は、前輪高27.6cm、後輪高22.2cm、全長(居木長)は37.8cmで、材質は樫と栗と推測される。黒漆塗りで、力革通穴の裏のくぼみに「永正弐年十月吉日」(1505年)の年紀と花押が線刻されている。この花押は足利義政の申次衆であった伊勢上野介貞弘のものと推定されている。前輪と後輪に織田信長の旗印である永楽通宝紋の金蒔絵が施されており、西尾家の家譜には、吉次が仕えた信長から鞍を賜ったとの記載がある。
中世の鞍として素朴な姿を残しており、伝来もほぼ明らかな貴重な作品である。
鐙は、左右とも高さ23cm、幅13.2cm、材質は鉄で、表面には桜花紋、底には蔦唐草紋などの真鍮象嵌が施されており、その作風は桃山時代の時代性をよく表しているとされる。鞍と一具のものとして当寺に伝来したものであり、付けたり指定となっている。(埼玉県教育委員会掲示より)
妙厳寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)