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宿氷川神社。志木市上宗岡の神社

宿氷川神社の概要

宿氷川神社は、志木市上宗岡にある氷川神社で、上ノ氷川神社とも通称します。宿氷川神社は、千光寺を中興した権大僧都善海が、武蔵国一の宮氷川神社を分祀して承暦2年(1078)創建したといいます。明治維新後には村社に列格、明治22年に字袋の稲荷神社を合祀したといいます。

宿氷川神社
宿氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 須佐之男命
相殿 奇稲田姫命、大己貴命
境内社 稲荷社
祭日 -
住所 志木市上宗岡2-2-34
備考 -



宿氷川神社の由緒

宿氷川神社は、千光寺を中興した権大僧都善海が、武蔵国一の宮氷川神社を分祀して承暦2年(1078)創建したといいます。明治維新後には村社に列格、明治22年に字袋の稲荷神社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による宿氷川神社の由緒

(宗岡村)氷川社
千光寺の持
稲荷社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による宿氷川神社の由緒

宗岡は棟岡とも書き、地内には、かの平将門の乱の平定直後の天慶四年(九四一)の草創と伝える千光寺があることから、かなり古くから開けていたと伝えられる。口碑によれば当社は、その千光寺を中興した権大僧都青海が、承暦二年(一〇七八)に高鼻村(現大宮市高鼻町)に鎮座する武蔵国一の宮氷川神社を分祠したものであるという。ちなみに、当社の境内は同寺の南側に隣接しており、『風土記稿』 宗岡村の項に「氷川社 千光寺の持」と記されているように、江戸期には同寺が別当として当社を管理していた。
当社の神体は石臼である。これは、観応二年(一三五一) に下宗岡に分祀を行った際、両者が同一の社であることの証として、二対の茶日石に年号を刻み、上石は下の本殿下の土中に、下石は当社の本殿下の土中に各々鎮めとして埋納されたと伝えられるものである。現在、この石は本殿の内陣に安置されているが、それは恐らく本殿の再建などの際に土中から掘り起こされたことによるのであろう。なお、本殿再建の棟札としては、寛文八年(一六六八)・天保四年(一八三三)・元治元年(一八六四)の三枚が現存している。
神仏分離の後は、古社かつ産土神であるとの理由から、社格制定に際して村社となり、明治二十二年には字袋の無格杜稲荷神社を合祀した。また、昭和八年には幣殿と覆屋も新築された。(「埼玉の神社」より)

志木市教育委員会掲示による宿氷川神社の由緒

宿氷川神社(上ノ氷川神社)
創建は、承暦二年(一〇七八)千光寺住職の権大僧都善海が、武蔵国一の宮氷川神社(さいたま市高花町)を分祀して行われたものと言われています。
創建以後は、千光寺の管理下に置かれ、宗岡上組・見次組の産土神として信仰されています。
本殿建立の時期については、明らかではありませんが、明治維新後、神仏分離に伴う社格制定で村社に指定されたこの神社は、昭和八年二月に拝殿、幣殿、覆殿を新築し、昭和十八年三月に神饌幣帛料供進神社に指定されました。
昭和二十年八月、戦後の制度改革により宗教法人による神社(四級社)となっています。
伝承では、観応二年(一三五一)九月に宿氷川神社にあった茶臼を二つに分け、その上石に前記年暦を刻んで、神殿の床下に埋め、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀ったことが下ノ氷川神社の始まりと言われています。そのため、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北に面して建てられ氏子の村人を守るとされています。
面積は一〇四六平方メートルある境内には、その他に、倉稲魂命を祭神とする稲荷社も祀られています。(志木市教育委員会掲示より)


宿氷川神社の周辺図


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参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)



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