羽根倉浅間神社。建久4年の創建
羽根倉浅間神社の概要
羽根倉浅間神社は、志木市上宗岡にある浅間神社です。羽根倉浅間神社は、源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で巻狩りをした際、夫役の代償として田の年貢が免除されたので、里人はこれを記念して字大野の地に富士浅間社を祀ったといいます。その後、長禄年間(1457-60)の荒川洪水の際に祠が羽根倉(現在の羽根倉橋の上流)に流れ着いたことから当地に社殿を建立したといいます。明治維新後に村社に列格、荒川改修工事に伴い字蓮田に移転、字十人野の稲荷杜、字大野の浅間社、字蓮田の稲荷社、字東前の八幡社の無格社四社を合祀しています。県道浦和所沢線の開通に伴い、昭和48年当地へ遷座したといいます。
社号 | 浅間神社 |
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祭神 | 木花開耶姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 富士塚、稲荷社、八幡社、御嶽社 |
祭日 | - |
住所 | 志木市上宗岡4-27-20 |
備考 | - |
羽根倉浅間神社の由緒
羽根倉浅間神社は、源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で巻狩りをした際、夫役の代償として田の年貢が免除されたので、里人はこれを記念して字大野の地に富士浅間社を祀ったといいます。その後、長禄年間(1457-60)の荒川洪水の際に祠が羽根倉(現在の羽根倉橋の上流)に流れ着いたことから当地に社殿を建立したといいます。明治維新後に村社に列格、荒川改修工事に伴い字蓮田に移転、字十人野の稲荷杜、字大野の浅間社、字蓮田の稲荷社、字東前の八幡社の無格社四社を合祀しています。県道浦和所沢線の開通に伴い、昭和48年当地へ遷座したといいます。
新編武蔵風土記稿による羽根倉浅間神社の由緒
(宗岡村)浅間社
観音寺の持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による羽根倉浅間神社の由緒
社伝によれば、建久四年(一一九三)源頼朝が富士の裾野で巻狩りをした際、宗岡の里人が多数勢子として召集された。この夫役の代償として、田の年貢が免除されたので、里人はこれを記念して字大野の地に祠を建てて富士浅間社を祀った。その後、長禄年間(一四五七-六〇)に荒川が大洪水を起こした時に祠が羽根倉(現在の羽根倉橋の上流)に流れ着いた。神の意志と考えた里人はここに社殿を建てて祀るようになったという。
『風土記稿』には「浅間社 観音寺持」と載る。別当の観音寺は真言宗の寺院で、元亀年中(一五七〇〜七三)に創建され、後に一旦廃寺となったが、正保年中(一六四四-四八)に地頭岡部佐兵衛の家臣白井某が再び堂字を造営したと伝える。
明治初年の神仏分離を経て村社となり、講中によって明治五年から同十三年の九年間を要して境内に富士塚が築かれた。しかし、荒川の改修により大正十五年から昭和二年にかけて字蓮田の地に遷座した。併せて字十人野の稲荷杜、字大野の浅間社、字蓮田の稲荷社、字東前の八幡社の無格社四社が合祀された。更に昭和四十八年には県道浦和所沢線の開通により、再び移転し現在の地に落ち着いた。富士塚が移転の都度消滅することなく、そのまま移築されたのは、講中の信仰の強さを物語るものである。(「埼玉の神社」より)
羽根倉浅間神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)