柏町千手堂。もと松林山観音寺大学院

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柏町千手堂。志木市柏町にある寺院

柏町千手堂の概要

寺院の柏町千手堂は、志木市柏町にある堂宇です。柏町千手堂の創建年代等は不詳ながら、往古は松林山観音寺大学院と称する天台宗寺院で、七堂伽藍を擁し、その大門は浦和所沢線附近だったとも伝えられます。大学院はいつしか火災により焼失、その後日蓮宗僧侶により再興され大乗院と称していたものの、大乗院も室町時代末期に焼失、その後千手観音を本尊とする堂のみが再建されたといいます。

柏町千手堂
柏町千手堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 千手堂
本尊 千手観音像
住所 志木市柏町5-8-12
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



柏町千手堂の縁起

柏町千手堂の創建年代等は不詳ながら、往古は松林山観音寺大学院と称する天台宗寺院で、七堂伽藍を擁し、その大門は浦和所沢線附近だったとも伝えられます。大学院はいつしか火災により焼失、その後日蓮宗僧侶により再興され大乗院と称していたものの、大乗院も室町時代末期に焼失、その後千手観音を本尊とする堂のみが再建されたといいます。

境内掲示による柏町千手堂の縁起

千手堂
創建年代は明らかではありませんが、本尊(千手観世音菩薩)が鎌倉末期から室町中期頃の作と伝えられることから創建もその頃と推定されています。
古くは松林山観音寺大学院と称する天台宗寺院で、七堂伽藍を擁し宿坊もあったといわれる程の大寺院であったらしく、千手堂のすぐ近くの現在踏切がある地点付近には「大門」という地名が残っていることから、この付近に寺の大門があったものと推測されています。この寺院は、なんらかの理由で焼失したらしく、日蓮宗の人々によって再興され、一時は大乗院という日蓮宗寺院になったこともあったといわれています。その後この寺院も室町末期頃戦乱で焼失し、再建されたものが今日の千手堂の前身とされています。
なお、ここでは現在でも毎年八月二十四日になると大塚念仏講により百万遍の念珠繰りが行われています。(志木市教育委員会掲示より)

「志木市史」による柏町千手堂の縁起

千手堂
防衛道路が東上線を跨ぐ陸橋から鶴瀬駅に向かって二つ目の通称大塚の踏切、ここを通る道が最近まで「往還」と呼ばれていた昔の鎌倉街道である。奥州方面から鎌倉に通じるこの沿道には創建の古い寺院や神社があちこちに見られるところから、同じく鎌倉街道に沿っていた千手堂の古さもある程度想像できよう。
今では千手館という地区住民の集会所としての側面がむしろ強調されている感じの千手堂も、大塚地区住民の信仰のよりどころとしての重要な役割を長い間果たしてきたことは無視できない。正確な名称は千手観音堂であるはずのこの堂は、古くは松林山観音寺大学院と称し天台宗に属していたが、火災により焼失後、日蓮宗の手で再興されたため、一時は大乗院という名の日蓮宗寺院だったこともあるという。これも中世末に羅災し、地区住民によって再建された堂が今日の千手堂の前身である。天台宗の寺院として創建して以来の御本尊、千手観音がその顔立ちから推察して、鎌倉末期ないし室町中期ごろの作と見られることを根拠とし、大学院の創建時期をこのころに当てる向きが多いようである。現在の千手堂は昭和になってから新築されたものであるが、それ以前の間口五間・奥行三間ほどの草ぶき屋根の堂には、珍しいチョウナ削りの木材が柱などに使われ、専門家から五百年以前の建築物と折紙をつけられたことがあるくらいである。昔は七堂伽藍を擁するほとの大寺院だったが、千手堂以外はたびたびの戦乱で焼失してしまったともいう。いかにこの寺の規模が大きかったかは、門前から一〇町も先の奥州街道(現在の県道浦和・東村山線)にその大門があったことによっても肯かれるところである。また今でも付近の畑から寺の礎石と思われる石の発見されることがあると言われている。
この千手堂で特筆すべきは、大塚念仏講により百万遍の念珠繰りが今なお行われていることであるが、詳しくは「5民俗、七講-大塚組念仏講」に述べているのでここでは省略する。(「志木市史」より)


柏町千手堂の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「志木市史」