三峯神社。日本武尊が勧請、御眷属(山犬)信仰の中心
三峯神社の概要
三峯神社は、秩父市三峰にある神社です。三峯神社は、日本武尊が景行天皇41年に当山に登り、伊弉諾命・伊弉冉命を祀り創始したと伝えられ、奈良時代には修験道の祖である役小角が修業した際、三山を雲取山・白岩山・妙法岳と呼び、聖地と定めたといいます。養和2年(1182)には畠山重忠が当社に祈願、祈願成就の御礼として建久6年(1195)には十里四方の土地を寄進を受けています。その後、熊野修験月観道満が再建、寛文5年(1665)には本山聖護院の直末となり、三峰山大権現と称したといいます。明治維新後は、別当寺を廃し、明治6年郷社に、明治16年県社に列格しています。なお当社は御眷属(山犬)信仰の中心として、関東一円に講社が結成されています。
社号 | 三峰神社(宗教法人名簿記載名) |
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祭神 | 伊弉諾尊、伊弉册尊 |
相殿 | 造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)、天照大神 |
境内社 | 祖霊社(旧歓喜天社)、国常立神社、日本武尊社(旧行者堂)、伊勢神宮社 (末社)月読神社、猿田彦神社、塞神社、鎮火神社、厳島神社、杵築神社、琴平神社、屋船神社、稲荷神社、浅間神社、菅原神社、諏訪神社、金鑚神社、安房神社、御井神社、祓戸神社、東照宮、春日神社、八幡神社、秩父神社、大山祇神社、竈三柱神社 |
祭日 | 例大祭4月8日、5月3日奥宮山開祭、10月9日奥宮山閉祭、12月2日冬季大祭 |
住所 | 秩父市三峰298-1 |
備考 | - |
三峯神社の由緒
三峯神社は、日本武尊が景行天皇四一年に当山に登り、伊弉諾命・伊弉冉命を祀り創始したと伝えられ、奈良時代には修験道の祖である役小角が修業した際、三山を雲取山・白岩山・妙法岳と呼び、聖地と定めたといいます。平安末期には熊野詣が流行、当社も信仰を集め、養和2年(1182)には畠山重忠が当社に祈願、祈願成就の御礼として建久6年(1195)には十里四方の土地を寄進を受けています。正平7年(1352)南朝の新田義興を匿ったのを管領足利基氏に咎められ、社領を没収されてしまいますが、熊野修験月観道満が再建、寛文5年(1665)には本山聖護院の直末となり、三峰山大権現と称したといいます。明治維新後は、別当寺を廃し、明治6年郷社に、明治16年県社に列格しています。
による三峯神社の由緒
三峯神社御由緒
当社は今から一九〇〇年余の昔、日本武尊が東国の平安を祈り、伊弉諾尊、伊弉冉尊、二神をお祀りしたのが始まりです。尊の道案内をした山犬(狼)が、お使いの神です。三峯 の名は神社の東南にそびえる雲取、白岩、妙法の三山が美しく連なることから、三峯宮と称されたことに因みます。
奈良時代、修験道の開祖役小角が登山修行したと伝え、天平八年国々に疫病が流行した折、聖武天皇は当社に葛城連好久を使わして祈願され、大明神の神号を奉られました。
平安時代には僧空海が登山、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈り、以来僧侶の奉仕するところとなりました。
鎌倉時代、畠山重忠が祈願成就の御礼として十里四方の土地を寄進しました。また戦国時代には月観道満が諸国を勧進して天文二年に社殿を再建し、中興の祖と仰がれています。
江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年現在の本殿が遷宮されました。
享保年間には日光法印が社頭の復興に尽し、御眷属信仰を広めて繁栄の基礎を固めました。寛政四年に随身門(仁王門)、同十二年には社殿が建立され、幕末まで聖護院天台派修験、関東の総本山として重きをなし、幕府から十万石の格式を持って遇されました。
明治維新の神仏分離により社僧を罷め仏寺を閉じ神社のみとなりました。明治六年郷社、同十六年県社に列せられ、戦後官制廃止により宗教法人三峯神社として現在に至っています。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による三峯神社の由緒
三峰神社<大滝村三峰二九八-一(三峰字上倉)>
秩父山地に源を発する荒川は、武蔵野平野を貫流して田畑を潤している。素朴な農耕に生きていた古代の人々が、この大事な水をもたらしてくれる秩父の国の奥深く聳える三峰三山を仰いで、畏敬の念を抱いたことは想像に難くない。また、参道の入口となっている大輪の地にあり、荒川河岸に開口する鍾乳洞は、「神庭半洞窟」と呼ばれる古代人の住居祉であり、付近から祭祀遺地と考えられる環状配石川が発見されている。
三峰神社の創始について、『縁起』は、景行天皇四一年日本武尊が当山に登られて、伊弉諾命・伊弉冉命を祀られ、翌四二年天皇東国巡幸の際、三山高く聳え立つことを聞し召されて、三峰宮と名付けられ、後にこの三峰に修験道の祖である役小角が修業した際、三山を雲取山・白岩山・妙法岳と呼び、聖地と定めたという。
日本武尊の東征による創始を伝える神社は当地方に多い。これは、当地が往時の交通路であったことによるものであろう。また、古くかの神が春になると里に降りて田の神となり、秋にはまた山に帰って山の神になるという信仰があり、役小角が始めた修験道もこの信仰を元にしている。役小角の修行の話は、三峰三山がこの条件を充たし、更に修験道の修行地にふさわしかったことの表現であろう。
享保一八年の『三峰村名主願書』に、三峰山の始まりを「天が下に生を受けたる人、熊野御神へ参詣して神恩を不報者可有、然共一東国に生れたる者は、遠路往還容易に難成、心外之徳に背く、如斯清浄潔白之霊地(三峰山)に三熊野を勧請」と記して、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることを示唆している。これは熊野の地名と三峰の地名の類似によってもうかがえるもので、熊野に「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を雲取山と呼んでいる。更に当社の鎮座地を上倉というが、新宮市熊野速玉神社の背後に、磐座を祀る神倉神社があり、『続古今集』に「三熊野の神倉山の石たたみのぼりはてても猶いのるかな」が見える。
平安末期には、俗にいう熊野詣が流行し、各地に先達と呼ばれる指導者が生まれて熊野信仰は全国的に広まる。当社もこれに従って信仰された模様で、養和二年に郡主畠山重忠が当社に祈った願文が残る。
四弘恩沢潤卒土浜、大悲照光薫六合海之時也、今時重能有重 属平僕射在子洛頃、既欲没西洋、我神何不垂哀愍哉、仍重忠重成等、捧幣帛致誠於当社、誠惶頓首、死罪々々、養和二政月日
重忠は、建久六年に当社に一〇里四方の土地を寄進し、「守護不入の地」としたと伝える。これは当社の信仰の拡大と勢力の伸長を表すものであろう。
下って正平七年、南朝方の新田義興を匿ったことから、管領足利基氏の怒りをかい、社領を没収され、以後三峰山は衰退をみる。
『縁起』に「文亀二年、一道土有り宮殿の衰微を見、堂舎の破潰を嘆て、郡中を勧て、再び神仏の威光を忝うす、夫れ当山中興伏行者道満是也」とあり、熊野修験道満が釈零落した当山を二七年を費やし再興したもので、天文二年「三峰宮棟札」には月觀道満とある。
以来、当社は順調な発展をみたと思われ、天文一四年には児玉の中林次郎太郎が十一面観音懸仏を、寛永一二年には関東郡代の伊奈家の家臣が銅製絵馬を、明暦三年には南部山城守が洪鐘を奉納している。まあ、寛文元年には本殿・拝殿の再建もなされている。
このように隆盛をみた当社は、寛文五年に今まで支配を受けていた越生の修験山本坊の配下を離れ、本山聖護院の直末となり、それまで本社を三峰宮と称え、十一面観音を祀る別当を観音院と呼んでいたが、以降本社を三峰山大権現、別当を三峰山観音院高雲寺平等坊とする。
更に享保五年入山した山主日光法印は、神異により山犬の神霊を神札に封じて一年間信者に貸し出し、今日の三峰山繁栄の基盤とした。
『風土記稿』に「(寛政年中より)寺僧七年に一度登城(江戸城)す」と載り、関東一の霊場、天に近い神域と称されるようになる。
明治初めの神仏分離により、別当を廃し、三峰神社と号する。
大正一四年、秩父宮雍仁親王殿下の御参拝を機に、山上施設の充実が図られ、記念館の新設、参籠所の改築を行い、昭和三七年に本殿拝殿の改体復元工事、同三九年宿坊報徳殿新築、同五一年秩父宮記念三峰山博物館建設、同五九年参龍所興雲閣の新築を行った。(「埼玉の神社」より)
三峯神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿(記載省略)
- 「埼玉の神社」