蓮臺山常明寺。秩父市荒川白久にある真言宗寺院
常明寺の概要
真言宗寺院の常明寺は、蓮臺山と号します。常明寺の創建年代等は不詳ながら、かつては高岩山石水寺と号していたといいます。僧慶海が延宝年間(1673-1681)に真言宗に改めて高台山常明寺と改号、浄厳(元禄15年1702年寂)が開山しました。第三世即道(享保15年1730年寂)は、書画彫刻にも優れただけでなく、修験・苦行によって超人的な体力を持ち、1日20~30里(80km~120km)も移動できたともいい、当寺で入定しています。
山号 | 蓮臺山 |
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院号 | - |
寺号 | 常明寺 |
住所 | 秩父市荒川白久 |
宗派 | 真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
常明寺の縁起
常明寺の創建年代等は不詳ながら、かつては高岩山石水寺と号していたといいます。僧慶海が延宝年間(1673-1681)に真言宗に改めて高台山常明寺と改号、浄厳(元禄15年1702年寂)が開山しました。第三世即道(享保15年1730年寂)は、書画彫刻にも優れただけでなく、修験・苦行によって超人的な体力を持ち、1日20~30里(80km~120km)も移動できたともいい、当寺で入定しています。
新編武蔵風土記稿による常明寺の縁起
(贄川村)常明寺
小名贄川にあり、蓮臺山と號す、古へは高岩山石水寺と云ひしが、慶海と云る僧延寶年中に寺號・山號を換へ、改宗して眞言宗となり、湯嶋靈雲寺の配隷に屬す、除地三畝六歩、本尊阿彌陀、開山浄嚴元禄十五年六月廿七日化す、當寺三世の主僧を即道と云、奇人の聞へあり、或は時に佛に供する野菜等を、日本橋の市に賖るに、其迅速なる時日を移さずして、其用遍きこと所謂左慈が語項に、蜀薑を得て還るにひとしと、土人傳へ説く、寺に蔵る法華經・般若經・阿彌陀經等、みな即道に就て寄附ありし品なり、又所持の錫杖あり、是は弘法大師入唐の時携へしを、讃州高松領大久保蜜寺にありし製を、模せしものと云、享保十五年閏九月七日入定すと云、上田野村薬師堂に、石の勒する銘文の略に曰、秩父郡上田野村薬師堂住、尾張守町田定照末孫、同苗六兵衛定之、卅五歳云々、聞之曰、六兵衛元禄中人遁世曰即道、居所不定、一日行二三十里、有種々奇行曰入定、於贄川村常明寺人發而見之、唯空棺耳、不知所終、(新編武蔵風土記稿より)
常明寺・第三世即道について
即道終焉の地
即道は享保年間上田野糀屋の薬師堂から贄川のこの地に移住し、真言宗蓮台山常明寺の三世の僧となった。常明寺本尊は阿弥陀如来、また地内には台石に即道の筆跡が刻んである宝篋印塔も残っている。
修験・苦行によって絶倫なる体力を養い、仏道・書学を習得する他、彫刻にも逸品を残した超人的スーパーマン即道の生涯であった。
享保一五年(一七三〇)九月七日、即道は鐘を打ちつつ、一本の杖を棺内に残して入定したと言う。享年四八歳であった。
即道の墓は常明寺周辺墓地の上限にあり、奇人即道を物語るのにふさわしい奇形をしている。
即道作の村指定文化財
薬師如来座像 上田野糀屋 薬師堂
薬師如来立像 上田野坂口 薬師堂
石経塚・爪彫り石 上田野糀屋 薬師堂
(荒川村教育委員会掲示より)
常明寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿