慈眼寺。秩父市東町にある曹洞宗寺院

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旗下山慈眼寺。秩父三十四ヶ所札所

慈眼寺の概要

曹洞宗寺院の慈眼寺は、旗下山と号し、秩父三十四ヶ所札所の第13番観音で著名です。慈眼寺の創建年代等は不詳ながら、当地は日本武尊が東国征伐に祭して旗を立てた地と伝えられることから旗下と呼ばれていたといいます。当地の観音堂は古くより信仰を集め、江戸期には、当寺の壇越高野某の娘が江戸に嫁入り、明暦の大火にも九死に一生を得たのはこの観音像の霊験のおかげだと当地で信じられたといいます。また、薬師如来像は「あめ薬師」と呼ばれ、7月8日の縁日にはブッキリ飴を売る露店が軒を並べるといいます。

慈眼寺
慈眼寺の概要
山号 旗下山
院号 -
寺号 慈眼寺
住所 秩父市東町26-7
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



慈眼寺の縁起

慈眼寺の創建年代等は不詳ながら、当地は日本武尊が東国征伐に祭して旗を立てた地と伝えられることから旗下と呼ばれていたといいます。当地の観音堂は古くより信仰を集め、江戸期には、当寺の壇越高野某の娘が江戸に嫁入り、明暦の大火にも九死に一生を得たのはこの観音像の霊験のおかげだと当地で信じられたといいます。また、薬師如来像は「あめ薬師」と呼ばれ、7月8日の縁日にはブッキリ飴を売る露店が軒を並べるといいます。

新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起

(大宮郷)十三番觀音
秩父卅四番札所の内なり、旗下にあり、堂は南向七間四面、これを本堂とす、本尊正觀音長一尺一寸五分の木坐像、行基の作、外に奥院と稱して、千手觀音の木坐像を安ず、これも行基の作にて、長五寸三分、又子安觀音の木坐像を置く、長一尺七寸餘、弘法大師の作、又勢至の銅像、本多吉光の鑄造厨子入、この所は往古日本武尊東國征伐の時、旗を建させ玉ふが故に、はたの下と云しを、年經て土人其本據を失ひ、はけの下とよべり、此佛場の開けざる古より、斯る事蹟のことにや、大士の降臨ありて、永く靈場となりしと云、この寺の檀越大宮町の高野某が女、江戸中端に嫁して後、明暦丁酉正月十八日の火災に、萬死を出て一生を得たること、偏にこの觀音の靈驗なること人の知る所なりと云、詠歌に曰、御手にもつはちすの帚のこりなく、浮世の塵をはけの下寺、
別當慈眼寺
旗下山と號す、曹洞宗、郷中廣見寺末なり、境内一段九畝二歩、除地一畝十八歩、外に地蔵堂免廿八歩、開山東雄朔方、開基高野七右衛門が先祖なり、その沒年を傳へず、
札堂。巡禮の札を納る所なり、十一面觀音を安ず、同じ堂を分て十六羅漢及び権者十三人の木像あり、中尊に阿彌陀を置けり、
經蔵。一切經を納む、中に輪蔵あり、阿彌陀・傳大士の二像を安ず。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による慈眼寺の縁起

市指定史跡札所十三番
旗下山慈眼寺
この札所のご本尊は聖観世音菩薩で、お堂は、三間四面、表軒唐破風つきの流れ向拝を伏して、入母屋造りの屈指の建物です。
明治十一年三月の秩父大火に類焼し、再建されました。うす肉彫りの枝輪、絵画のある格天上は荘厳です。
県指定旧跡で、文政明治の徳行家井上如常の墓も境内にあります。
街の中心の一角にあるこの地は、昔より霊地としてその名も高く、日本武尊東国征伐の折、この地に旗をたてさせた故、ハタノ下といわれ、年を経てハケノ下と呼ぶようになったという
また、薬師如来は「あめ薬師」といい、眼病平癒に功徳あらたかで、七月八日の縁日は、境内外に二百余軒の露店が並び、ブッキリ飴が売られ、多くの参詣人で賑わい、秩父の夏の風物詩となっています。
昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定(境内掲示より)


慈眼寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿