野坂寺。秩父市野坂町にある臨済宗南禅寺派寺院

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佛道山野坂寺。野坂堂、秩父三十四ヶ所札所

野坂寺の概要

臨済宗南禅寺派寺院の野坂寺は、佛道山と号し、秩父三十四ヶ所札所の第12番観音で著名です。野坂寺は、新井惣吉が開基となり、啓室達(天和2年1682寂)が開山、第六世佛海和尚が寛保元年(1741)に、秩父三十四ヶ所札所の野坂堂が奉安されていた当地へ移転、野坂堂を統合したといいます。秩父三十四ヶ所札所の観音像は甲斐の商人が奉納したもので、賊に襲われた危急の難を免れたことに感謝したものといいます。

野坂寺
野坂寺の概要
山号 佛道山
院号 -
寺号 野坂寺
住所 秩父市野坂町2-12-25
宗派 臨済宗南禅寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



野坂寺の縁起

野坂寺は、新井惣吉が開基となり、啓室達(天和2年1682寂)が開山、第六世佛海和尚が寛保元年(1741)に、秩父三十四ヶ所札所の野坂堂が奉安されていた当地へ移転、野坂堂を統合したといいます。秩父三十四ヶ所札所の観音像は甲斐の商人が奉納したもので、賊に襲われた危急の難を免れたことに感謝したものといいます。

新編武蔵風土記稿による野坂寺の縁起

(大宮郷)十二番觀音
秩父卅四番札所の内なり、野坂にあり、堂は七間半西向、本尊子安正観音、木立像長五尺、聖徳太子の作、秩父縁起靈驗【圓通傳】によるに、往昔甲斐國の商人年久く山路をこへ、當郡に至り物の交易せしが、或時件の山路にて賊にあひ、危急の難を遁れしこそ、常々信仰し奉る、観音の靈験いと著しきこと感念して、本國の山陰に年頃この観音を安じ奉りて、霜露をしのがせたまひしが、一時の靈端にいよいよ信心増長して謂へらく、秩父は観音有縁の靈地なれば、山陰に置んは彼地に移したてまつらんに、しかじと遂に負ひ来りて、此地に安置したまふとかや、或人當山に歩を運ぶこと年久く、齢やゝ老にければ、歩も心に住せず、信心自ら撓みければ、通夜せし時更静に心も清みわたる折から、内陣より妙なる聲にて詠じたまふ、其詞に云、老の身に苦しきものは野坂寺、今思ひしれ後の世の道、又子安観音の奥院と稱して堂内に置く、これも聖徳太子の作にて、長五寸の木坐像なり、堂に白花殿の額を掲ぐ、堂の正面にて廿間ばかりを隔て楼門あり、樓上に彌陀・釋迦及び十三佛を安ず、
別當野坂寺
佛道山と號す、臨済宗、京都南禅寺末なり、除地八畝十二歩、開山啓室達天和二年十二月廿六日示寂す、開基は郷民新井惣吉が先祖某、法名は廣安萬治元年十二月廿九日歿す(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による野坂寺の縁起

市指定史跡
秩父札所第十二番臨済禅宗南禅寺派佛道山野坂寺
此の札所の開創当時(室町時代)は野坂堂と称する観音堂で現在の本堂の裏山の中腹にありました。
野坂寺は別の所にあって札所十二番野坂堂の別当職を代々つとめていましたが寛保元年野坂寺六世佛海和尚が寺を現在地に移して野坂堂と一体になりました。重層入母屋造りの山門は同年代の建立で左右の花頭窓の内には十王像が安置されている。本堂(白華殿)は昭和四十八年再建された。正面八間半、奥行七間・向拝をふした入母屋造りで観音堂と寺院本堂を兼備した形式であります。
御本尊は正観世音菩薩立像形の一木造りで内ぐりがあり高さ一五六糎の等身大で藤原時代の地方の代表作と云われている。
縁起によると、その昔、甲斐の商人が絹の商いに秩父へ来て当所に至りて賊に遭遇し命と危ない時一心に観世音を唱えると不思議にも賊難を免れた。後に甲斐より秘蔵の観世音五尺の立像を当地に安置しお堂を建立したと伝えられている。(境内掲示より)


野坂寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿