四萬部寺。秩父市栃谷にある曹洞宗寺院

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誦経山四萬部寺。秩父三十四ヶ所札所第一番

四萬部寺の概要

曹洞宗寺院の四萬部寺は、誦経山と号し、秩父三十四ヶ所札所の第一番で著名です。四萬部寺は、行基菩薩が秩父地域が観音菩薩の霊地だと悟って観音堂を建立したとも伝えられます。その後、播州書写山円通寺の性空上人(寛弘4年1007年寂)は弟子の幻通に武蔵の秩父では観世音菩薩に縁深い地なので、秩父に行って教化せよと命じ、幻通は当地で読経を続け、妙典四萬部経を読経、観音堂を開闢したといいます。その後瑞山守的が曹洞宗寺院として開基、妙音寺と号していました。

四萬部寺
四萬部寺の概要
山号 誦経山
院号 -
寺号 四萬部寺
住所 秩父市栃谷418
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



四萬部寺の縁起

四萬部寺は、行基菩薩が秩父地域が観音菩薩の霊地だと悟って観音堂を建立したとも伝えられます。その後、播州書写山円通寺の性空上人(寛弘4年1007年寂)は弟子の幻通に武蔵の秩父では観世音菩薩に縁深い地なので、秩父に行って教化せよと命じ、幻通は当地で読経を続け、妙典四萬部経を読経、観音堂を開闢したといいます。その後瑞山守的が曹洞宗寺院として開基、妙音寺と号していました。

新編武蔵風土記稿による四萬部寺の縁起

(栃谷村)
第一番觀音
秩父卅四番札所の内、こゝを第一番とす、小名四萬部にあり堂は東向五間四面、本尊正觀音、木立像一尺五寸三分、行基の作なり、抑秩父卅四番札所、順禮の来由を尋るに、人皇四十五代聖武天皇佛乗を信敬ましますこと、先代に超させたまいしかば、行基朗辨に勅して、國家安全の御禱のために、法華最勝兩部を講せしめ、且は諸國に命じて国分寺を建させたまふ、この時行基東西南北の諸道を往来し、その地の靈なる所を得るに随ひ、即ち佛像を彫刻し、堂宇をたて、永く其地をして佛乗退轉なからしめたまふ折ふし、行基東道の按察使と共にこゝに至りて、此地は必觀音有縁の靈地なることを頓悟し、即ちこの大士を手刻し、堂宇を建立せり、それより二百七十餘年を經て永延二年性空上人化者の告によりて、播磨國書寫山を開き、圓教寺を草創し、國民の爲に讀誦大乗の三昧に入りしが、故ありて暫く其行を怠りしに、觀音の爾現に依て再び大衆に命じ、祈願してこの地佛法昌隆のため、妙經四萬部を讀誦し、その後寛弘四年三月十三日入寂す、弟子幻通に遺命して、汝秩父觀音の靈場行基の化縁せしあと、怠轉せざることを計營すべしとありしかば、頓て東國に下りて、此地の風俗を觀ずるに、結縁の應機發すべくもなく、暫く山林に隠れ、讀誦して時の至るを俟て、數回の春秋を送りけるに、一旦忽ちに機縁發し、有信の族力を合せて、堂塔みな舊觀に復しければ、こゝに於妙典四萬部讀誦の供養行ひ、塚を築て後世に示すと云、これがために堂を供養寺と號し、地を四萬部と云へり、一説に羊大夫納經すと云、いつれが是なるや、姑くその聞まゝを載す、當寺順禮の詠歌に曰、有難や一巻ならぬ法の花、數は四萬部の寺のいにしへ、
別當妙音寺
讀誦山と號す、又四萬部寺とも呼べり、曹洞宗、大宮郷廣見寺末なり、除地境内三段二畝六歩は觀音免なり、又二段八畝十八歩は、寺附の除地なり、彼此年貢地を合せて、境内一萬四千九百五十坪あり、本堂より觀音堂へ廊下傳ひに通ふ、その間八間なり、本尊地蔵を安ず、觀音靈場の開闢は、總説に載するごとく、正暦五年三月十八日性空上人を開祖とせり、寛弘四年寂せし後、二百七十餘年の間興廢ありて、日蓮上人中興して弘安五年十月十三日入寂、それより又遥の星霜を經て洞門の僧瑞山守的開基し、弘治元年九月五日寂す、その後額岫是伯再興し、寛永八年六月十四日寂せり、例年七月廿四日、大施餓鬼を執行せり、
本堂。七間に十三間
庫裡。四間に六間
衆寮。二間半に五間
寺寶
三尊彌陀畫像一幅。惠心僧都の筆なり
青面金剛明王畫像一幅。慈覺大師の筆なり
毘沙門天畫像一幅。高野山舜中僧都筆なり
刀一振。銘は鎌倉五郎入道廣光とあり、身の長二尺七寸五分、幅一寸一分五厘𨨩長さ八寸、こみ幅一寸、[金丘]厚さ二分五厘、反り一寸一分、目釘穴[金組]關より四寸にあり
奥院。觀音堂の後にあり、二間四方板葺なり、閻浮檀金の觀音を安ず、長九寸なり、其外には熊野三社権現を安ぜり、本地薬師佛は、木の坐像にして行基の作と云、又阿彌陀の木坐像をも置、長八寸弘法大師の作
札堂。本堂の前にあり、薬師及び十二神将の像を置けり、札所に順禮するもの、名刺を納るゝ所なり、
御影堂。同じ並びにあり、中央に十一面觀音の木立像を置き、其左右に権者十三人の木立像を安ぜり、權者の来由は既に郡の總説に詳なり、
六地蔵。本堂の前にあり、銅鑄の立像なり、前に石燈籠二基を置けり、
如意輪觀音。同所にあり銅鑄なり、
水盤石
稲荷社、秋葉社、牛頭社
鐘樓。九尺四方、鐘の徑り二尺三寸、正徳年間の鑄造なり、鐘の回りに六地蔵を鑄出せり、銘文は略す、仁王門。東向二間半に四間、表の方左右に金剛力士を置く、各長六尺五寸、裏の方には廣目・毘沙門二天を安ず、いづれも木立像なり、樓上に扁額を掲ぐ、四萬部の四大字にて、左の方には二行に、幕府世臣白河城主左少将源定信書とあり
誦經塚。樓門内にあり、周匝四間四方、塚上に石塔を立つ、其文妙典四萬部供養石塔と勒す、其側に銅鑄の釋迦、及び石造の文殊・普賢・阿難・迦葉の坐像を置けり、往古は此塚札所三番四番の間にありしを、何の頃か此に移せりと云説あり、又此經塚に再興の碑石を立てり其高さ一丈、其文左の如し、(碑文略)(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による四萬部寺の縁起

市指定史跡札所一番
誦経山四萬部寺
この札所は妙音寺とも称し、秩父三十四ヶ所札所もここから始まりますが、札所三十二番法性寺所蔵の長享二年秩父札所番付では二十四番となっており、現在の番付とは大きく異なっております。市内に散在する札所も同様にその番付の違いがみられます。これは江戸を中心とする参拝者の便を講じたものといわれています。
この堂は三間四面、表一間に向拝をふした入母屋造りで秩父札所中、特に整っており、昭和三十三年三月県指定文化財になっています。
造営については、元禄十年、宝暦六年、文政十三年てら造営から補修の経緯が明瞭であり、秩父地方きっての名匠藤田徳左衛門吉久によってなったものです。
天井には、狩野常信の弟子抱素斎休世常耀益之がかいた龍画があり、この他圏内に、類例を見ない施餓鬼堂もあります。
本尊は、聖観世音菩薩立像一木造り江戸時代の作です。
寛弘四年三月の昔播州書写山の性空上人は弟子の幻通に武蔵の秩父では観世音菩薩に縁深い地であり、彼の地に行きて教化せよと命じ、幻通は師の命を奉じて、この地のために四万部読誦した供養を行い塚をきづき秩父第一番の霊場にしたという縁起があります。(境内掲示より)


四萬部寺所蔵の文化財

  • 毛呂氏数代の供養塔(町指定文化財)

四萬部寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿