宝登山神社。秩父郡長瀞町長瀞の神社

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宝登山神社。秩父郡長瀞町長瀞の神社、秩父三社

宝登山神社の概要

宝登山神社は、長瀞町長瀞にある神社で、秩父三社の一として著名です。宝登山神社は、日本武尊が東征の折に、当山で山火事にあって難渋している時、多くの巨犬が現れて火を消し止めたことから、山頂に皇祖・山神・火神・及び山神の神使山犬を祀り(奥宮)、当山を火止山と名づけ、山麓に神日本磐余彦尊・大山祇神・火産霊神を祀ったといいます。江戸期に入り、人口の密集した江戸では火災や盗難が増え、火災除け・諸難除けとして御眷属(山犬)信仰が盛んになり、宝登山信仰が盛んになったといいます。明治維新後の明治5年村社に列格、大正13年には県社に昇格、戦後も山内充実を図っています。

宝登山神社
宝登山神社の概要
社号 宝登山神社
祭神 神武天皇、大山祇神、火産霊神
相殿 -
境内社 日本武尊社、賓玉稲荷社、天神社、招魂社、藤谷淵神社
祭日 例祭4月3日、産業祈年祭3月1日、産業感謝祭11月23日
住所 秩父郡長瀞町長瀞1828
備考 旧県社




宝登山神社の由緒

宝登山神社は、日本武尊が東征の折に、当山で山火事にあって難渋している時、多くの巨犬が現れて火を消し止めたことから、山頂に皇祖・山神・火神・及び山神の神使山犬を祀り(奥宮)、当山を火止山と名づけ、山麓に神日本磐余彦尊・大山祇神・火産霊神を祀ったといいます。江戸期に入り、人口の密集した江戸では火災や盗難が増え、(別当寺だった)玉泉院住職の流布により、火災除け・諸難除けとして御眷属(山犬)信仰が盛んになり、宝登山信仰の基盤をなしたといいます。明治維新後の明治5年村社に列格、大正13年には県社に昇格、戦後も山内充実を図っています。

新編武蔵風土記稿による宝登山神社の由緒

(金崎村)
寶登山
村の北當村と藤谷淵村・金澤村三ヶ所の入會秣山なり、登り一里許
(藤谷淵村)
野栗権現社
村の東荒川寄にあり。村内の鎮守除地一段五畝、例祭六月十五日、祭神詳ならず。光安寺持。
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天満天神社
村の北にあり。同寺(光安寺)持。此社地と相雙び薬師堂あり。検地の時除地を賜ひ、三畝十歩両所へ合して附らるること、検地帳に載せたり。
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荒神社
村持(新編武蔵風土記稿より)

宝登山神社社務所掲示による宝登山神社の由緒

当神社は、約一九〇〇年の昔、日本武尊が東北地方ご平定のみぎり、宝登山々頂に皇祖神武天皇・山の神・火の神をお祀りされたのがはじめと伝えられています。
尊が登山に先立ち、みそぎをされた「玉の泉」は今も社殿の後に残っています。
また、登山の途中山火事のため進退きわまった時、多くの巨犬が現れて火を消し止め、尊をお助けしたことから、古くは火止山と表わし、後世宝登山と改称しました。
なお、この巨犬は神様のお使いで御眷属と呼ばれ、火災盗難除・方災除・諸難除の御神徳が殊の外高く、更に宝の山に登るとの名前から商売繁昌・諸願成就の祈願も盛んです。(宝登山神社社務所掲示より)

境内掲示による宝登山神社の由緒

宝登山神社は、神武天皇、大山祇神、火産霊神をまつり、秩父神社、三峰神社とともに、秩父三社の一つとして知られています。
古くは、日本武尊が山に登ったとき山火事にあい、そのとき巨犬が現われ、火を消したことから、火止神社と言われていました。
本殿は銅葺き入母屋造り、千鳥破風、向拝の軒、唐破風権現造りと、江戸建築の技巧美を今なお伝えています。(境内掲示より)

「埼玉の神社」による宝登山神社の由緒

寶登山神社<長瀞町長瀞一八二八(藤谷淵字谷ツ)>
外秩父山地を南から北へ貫流する荒川が形成した”長瀞” の西岸に、なだらかな山裾を曳く独立峰がある。これが宝登山(四九七メートル)で、古くは、「ホトヤマ」または「ホドヤマ」と呼ばれていた。この山からは湧水が幾筋もの沢をなして流れ出しており、当社はその沢の一つである馬内沢の源流近くに、別当寺であった玉泉寺と並んで鎮座している。山の東面、当社参道の近くから、土師器と小形手捏製土器が出土しており、古代からこの地では祭祀が行われていたと考えられている。
『縁起』によると、当社は、日本武尊が東夷平定の途次、当山に登り、皇祖に加護を祈らんとして、山麓の清泉に禊せられ、山頂に向かわれた折、突然に猛火に包まれたが、この時、巨犬が現れて火を鎮めたことにより山頂に神籬を立て、皇祖を始め、山神・火神及び山神の神使山犬を祀り、以後、当山を火止山と名付け、山麓の地を選んで神日本磐余彦尊・大山祇神・火産霊神を祀ったという。
また、『賓登山権現縁起並勧化状』によると、弘法大師が遊行の折、神変の御告によって、この山を霊場となした縁由を述べている。
抑寶登山大権現は、神日本磐余彦尊にして往古弘仁年中弘法大師遊行の砌山頭金色に輝き麓より瑠璃泉湧出し、就中金胎両部の質備りしものと感詠あり、然る処不思議なる哉、池中より寶珠光を放て嶺上に翻る、是摩尼玉なり、寔に神変の御告、神祇勧請すべき霊場なりとて、則開基あって寶の山に登の名あり。
永久元年、僧空円が弘法大師巡錫の当地に玉泉院を開山し、以来神仏の聖地となり、玉泉院は賓登山大権現の別当となる。
賓登山が今日の規模をなしたのは江戸の中期と思われ、寛永四年版行の『賓登山図絵略記』には、中央に宝登山がそびえ、頂上に奥宮、山麓に賓登山大権現社と玉泉寺が描かれており、既に、この時代には現況と大差がないことがうかがわれる。玉泉院本堂には「寛文七天了未十二月吉日」の銘がある地蔵菩薩が本尊として安置されている。
この本尊地蔵菩薩を造立した住職は三三世日応であり、三四世光翁は賓登山大権現の本殿を再建、三五世覚産は当山が鉢形村(現寄居町)長久院の末寺であったものを京都智積院の直末とし、賓登山大権現の御眷属としての神犬信仰(害獣除け・火防盗賊除け)を流布し、賓登山信仰の基盤をなしている。
幕末に住職となった四五世融鑁は、時流を鑑み、文政五年に伏見稲荷大社の分霊を賓玉稲荷社として境内に祀り、更に同一二年には玉泉院本堂を、続いて天保七年には庫裏を再建し、山内の充実を計った。
天保九年に跡をうけた四六世栄乗は、弘化二年に御室御所院家格を願い、菊花紋を許され、寺格を上げ賓登山大権現の神威をも高めた。
栄乗は、更に、信徒の増加による賓登山大権現社殿の狭隘を嘆き、社殿再建を発願し、浄財の勧募に努めたが、資金調達に手間取り、総工費一二五〇両に及ぶ大工事は、弘化四年着工以来拝殿竣功まで、実に二七年の長期にわたることとなった。ところが、この間に世は明治維新を迎え、賓登山大権現、別当玉泉院に変革をもたらした。
明治初めの神仏分離により、賓登山大権現は玉泉院と分離し、社名を賓登山大神と改め、栄乗は玉泉院を離れて復飾し、東京芝神明の小泉大内庄に随い神道を修め、賓登山大神初代祠掌小菅是道となった。
明治五年、藤谷淵・本野上・中野上・野上下郷・矢那瀬の五カ村の村社となるに及び、社号を賓登神社とし、五カ村の村民はそれぞれ奉斎する鎮守に重ねて当社の氏子となった。
明治七年の正遷宮を奉仕した祠掌小菅是道は、同じく僧職から復飾した嫡子直道に職を譲り、翌八年没したが、両人共に玉泉院の僧職でもあったことから、社と寺との将来を考慮して社域と寺域を慎重に定めた上、神社運営の必要上から玉泉寺本堂の一部及び客般を当分の間、社務所・宿坊として、神社が借用し社務に当たることとした。
明治一五年、是道と共に神社独立の基礎を築いた社掌小菅直道が没して、一時、社の運営にも陰りを生じたが、神社が国家の宗祀とされ興隆の途についた明治二〇年には、県社昇格の運動が起こり、明治三〇年「県社加列願」が提出され、翌一三年には昇格が認められた。
明治の末には、当地が地質学的に「地球の窓」として注目され、また荒川の河岸段丘は、渋沢栄一が「宝登山は千古の霊場、長瀞は天下の勝地」と謳って以来、世に広く知られ、参拝と観光を兼ねた人々でにぎわい、皇族方の参拝も頻りに行われた。
大正九年社司に就任した塩谷俊太郎は、信仰と観光の関連に着目し神社繁栄策を講じた。神境を表すとして大正一四年「賓登神社」から「賓登山神社」へと社号変更を行ったが、これもその一つである。
以来、年々増加する参拝者に備えて神苑整備が進められるうち、昭和三年御大典記念事業として宝登山頂奥社及び奥社参道拡張整備が行われ、次いで皇紀二千六百年記念事業として記念館(社務所)の新築が始められたが、戦時中の物資不足により完成をみたのは昭和一八年であった。しかし、その後は、太平洋戦争の激化によって神苑整備事業、境内拡張計画は一時中止のやむなきに至った。
昭和二〇年、社司横田朝一の跡を継いだ宮司横田茂は、戦後の混乱を憂い、新生日本の基は真の神社信仰にあると説き、昭和二五年の奥社社殿の改築を手始めに、神苑の整備を進めると共に、観光による人心の安定を願い、氏子区域長瀞の復興に努め、その努力は秩父セメント株式会社諸井貫一社長の大鳥居奉献、参道拡幅及び回廊・祭器庫新設となって報いられた。
昭和三五年には、御鎮座千八百五十年の記念事業として、摂社日本武尊社の改築・奥社神札所新築・新社務所建設・神楽股改築(以上昭和三九年竣功)が順次行われ、昭和五四年には本殿の改修が行われた。
また、昭和五八年には、老朽化した玉泉寺客股(庫一裏)を当社が再建し、これを玉泉寺に寄附した上で、改めて神社が参集殿として借用した。このように神社と寺は、今日でも緊密な関係を維持している。
摂末社には、山頂に奥社、境内に摂社日本武尊社・賓玉稲荷社・天神社及び旧藤谷淵村の全域から合祀された諸社を奉斎した合殿藤谷淵神社、昭和三八年樋口小学校から移転した招魂社がある。(「埼玉の神社」より)


宝登山神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿