金王山多宝寺。長瀞秋の七草寺めぐりの桔梗
多宝寺の概要
真言宗智山派寺院の多宝寺は、金王山観音院と号します。多宝寺は、英明法印が開山となり元享元年(1321年)に創建したといいます。二十四世二十四世日光法印が三峯山観音院を中興、以後幕末まで多宝寺は観音院の住職を務めたといいます。当寺には長瀞秋の七草寺めぐりの一つとなっている桔梗が植えられています。
山号 | 金王山 |
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院号 | 観音院 |
寺号 | 多宝寺 |
住所 | 秩父郡長瀞町本野上40-1 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 十一面観世音菩薩像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 長瀞秋の七草寺めぐりの桔梗 |
多宝寺の縁起
多宝寺は、英明法印が開山となり元享元年(1321年)に創建したといいます。二十四世二十四世日光法印が三峯山観音院を中興、以後幕末まで多宝寺は観音院の住職を務めたといいます。
境内石碑による多宝寺の縁起
金王山観音院福寿坊多宝密寺は、京都市東山七条真言宗智山派総本山智積院の直末にして御本尊に十一面観世音菩薩脇侍に不動明王、毘沙門天を安置され行基菩薩の作と伝えられている。
開山は英明法印にて元享元年より法灯を継承すること三十六世におよび六百六十年を経ている。その由来を尋ねるに当山二十四世日光法印は三峯山観音院の住職となり山容の整備を大いに計り再中興開山と仰がれ、爾来三峯山の住職は当山の住職となって入山する制を定めた。その後二世日惠、三世日照、四世日翁、五世性幢、六世日高、七世日俊、八世日雅、急性観(草冠に禾鬼)十世観深、十一世観宝、十二世観禅、十三世到阿の各法印晋住され、山内の興隆につとめた。就中当山二十九世日俊法印は当地浅見恒雄氏の先祖である。若くして京に上り花山院の猶子となって佛道に励み四十二才にして権僧正に補せられ、帰郷して当山並に三峯山の住職となり、大いに寺門興隆につとめた。享和二年には聖護院の宮御召の網代輿を拝領し、文化十二年には江戸城御年礼にあたって場内乗輿を許された高僧であった。この様に当山住職は幕末の頃まで三峯山観音院の住職を務めた名刹である。
この間、文亀元年火災により全焼せるも再建され、安永六年再度の火災により本堂、坊舎、表門、土蔵等全山悉く烏有に帰し、十五年を経て寛政四年旧本堂、庫裏を建立されたが、百針十六年の歳月と境内が湿地であるためその老朽が甚しく、近年檀信徒より改築の声頻りに起り、ここに早大、世話人と相計り大願を発起し、檀信徒に図って当山百年の勝計を廻らし、寺院古来の伝統ある木造建築により、本格的な本堂並に客殿、庫裏を建立し、当山開創六百六十年記念と併せて昭和五十九年宗祖弘法大師千百五十年御遠忌を迎えるに当り、記念事業ともなり所期の念願を達成することが出来た。
この大聖業の完遂することの出来得た事は偏に御本尊十一面観世音菩薩の御威力と檀信徒各位の菩提寺護持の熱意によるものである。
当山の法灯は益々栄え御本尊の威光倍増し永く伽藍安穏興隆佛法、檀信徒宗門繁栄、子孫長久を祈念するものである。(境内石碑より)
新編武蔵風土記稿による多宝寺の縁起
(本野上村)多寶寺
金王山観音院号す。新義真言宗京都大佛智積院の末寺なり。本尊十一面観音、木の立像二尺一寸、脇立不動・毘沙門木立像長一尺五寸、各行基の作と云。開山を傳へず。
弁天社。(新編武蔵風土記稿より)
多宝寺所蔵の文化財
- 多宝寺奉納絵馬(町指定有形文化財)
多宝寺奉納絵馬
縦五十センチメートル、横一八八センチメートル、厚さ三センチメートルの欅板に、十八人の男女を広重(言に同)の筆法で描いた風俗画。三人の操る人形に合せて、手拍子を打ち、念仏鉦を鳴らし踊っている姿は、徳川末期の風俗感がよく出ている。画中の草屋根の観音堂(現墓地内)は今はなく、百日紅(猿すべり)の木は二代目である。作者は不明であるが、名のある画家の描いた秀作の一つであると思われる。寺宝のサラサ布に「念仏講人十七人文久元年」と年号が記されてあるので、その頃の作と考えられる。(長瀞町教育委員会掲示より)
多宝寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿