青苔山法長寺。秩父三十四ヵ所霊場7番
法長寺の概要
曹洞宗寺院の法長寺は、青苔山と号します。法長寺は、青苔院傑岑常英が開基となり、凉室清和和尚(慶長11年1606年寂)が開山したといいます。秩父三十四ヵ所霊場7番の観音像は、かつて牛伏堂に奉安されていましたが、天明2年(1782)火災により消失、当寺に安置されています。
山号 | 青苔山 |
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院号 | - |
寺号 | 法長寺 |
住所 | 秩父郡横瀬町横瀬1508 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釋迦牟尼佛像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 秩父三十四ヵ所霊場7番 |
法長寺の縁起
法長寺は、青苔院傑岑常英が開基となり、凉室清和和尚(慶長11年1606年寂)が開山したといいます。秩父三十四ヵ所霊場7番の観音像は、かつて牛伏堂に奉安されていましたが、天明2年(1782)火災により消失、当寺に安置されています。
境内掲示による法長寺の縁起
牛伏堂はもと根古屋(牛伏)にあったが江戸時代札所再編の折、現在地に移された。本堂は平賀源内の原図によって建てられたと伝えられ間口10間奥行9間瓦葺入母屋造りで札所一の大伽藍である。堂内土間の上に四国志度寺の縁起が彫刻され、左右に座敷書院を配し、内陣のまわりには極彩色の彫刻欄間、格天井には花鳥が画かれている。観音堂は別棟にあったが天明2年(1782)焼失した。それ以来堂内に観音像は安置されている。寺宝として大涅槃像の大作がある。(横瀬町教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による法長寺の縁起
(横瀬村)第七番觀音
秩父卅四番札所の内なり、小名牛伏にあり、堂は東向四間半、本尊十一面觀音、木立像、長一尺二寸三分、行基の作なり、天明二年丙丁の災にかかり再建せず、假に別當寺の本堂に移し置けり、縁起の略に曰、この堂地の巽にあたりて山あり、往古行基、自刻の觀音を、有縁の地に安ぜんと常に負擔し、所々行脚しけるにここに至り、盤石の如く重くなりしゆへ、此所に留置て回國せしとぞ、年經て牧童四五人この山にて草を刈けるが、日暮れ霧深く既にかへらんとせしに、ひとつの牛いづくともなく来りしが、ここに伏して動かず、各ついにそこに通夜す、その夜半ばかりに觀音、草中よい一僧を現して告たまうは、これより坤の方の林中に、庵を結び我を安ぜば、必罪悪の衆生を済度すべしと夢みて忽夜は明ぬるまま、奇異の思をなし草を打わけ、ここかしこをみるに、十一面觀音の像ありけるままに、人々打寄り今の牛伏堂の古地に、草庵を營みて安置せり、爾しより月の十八日には、参詣の徒聯緜として、通夜するもの堂にみち、靈驗掲焉たりと云、圓通傳の説には、人皇六十一代朱雀院の御宇、承平二年當郷末野の郷(今按ずるに末野村は、榛澤郡に屬す)花園山の城主、左衛門督某の長臣に某と云るもの、惡業によりて牛に生れしが、妻女等が佛乗に歸依して、亡父某の墓所に歩をはこびしこと應驗ありて、此所ついにさかんに佛法流布の地となり、觀音靈場第七番の梵宮となりぬるは、偏に彼牛ここに伏して、畜生道をはなれしより、牛伏の因縁たり、地名も是が爲に起るとぞ、又この邊の地名に横肯苅込など云所あるも、彼牛の往来せし縁によれりと云、今ここに是非を論ぜず、その兩説をあぐ、順禮の詠歌に曰、六道をかねてめぐりて拝むべし、また後の世の聞も牛伏、
別當法長寺
青苔山と號す、曹洞宗吉田村清泉寺末なり、境内除地三段一畝、本尊釋迦を安ず、開山凉室清和和尚慶長十一年十二月十八日示寂、開基青苔院傑岑常英歿年、及び後裔詳ならず
奥院。觀音堂よりは艮にあたり、六町を隔て山の中腹にあり、釋迦を安ず、
御影堂。権者十三人の木像を安ず、先年焼失の後、いまだ再建せず
札堂。順禮札を納むる所なり、こゝには毘沙門天を安ず、木立像長二尺七寸、弘法大師の作と云、至て古色にみゆ
六觀音堂
鐘樓。鐘の徑り二尺七寸、正徳四年と鐫す、銘文略せり、
蔵王権現社、諏訪社、稲荷社、神明・春日・白山・稲荷・秋葉・金毘羅・牛頭天王合社、
仁王門、薬醫門。以上二門、焼失後假りに造れり(新編武蔵風土記稿より)
法長寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿