摩利支天御堂。秩父郡横瀬町横瀬にある寺院
摩利支天御堂の概要
摩利支天御堂は、秩父郡横瀬町横瀬にあります。摩利支天御堂の縁起については不詳ながら、久那の新井氏が所持していたものと伝えられる摩利支天像を、地元の剣術家加藤平八から気楽流柔術十四代本橋惣五郎が譲り受け、横瀬村小名持山寺にあった阿弥陀堂(堂宇)を明治43年に移し、摩利支天像を奉安したといいます。昭和48年本橋武次氏の申し出により、当地日向新地へ移管、日向新地で管理奉祀しているそうです。摩利支天像は、江戸初期の彫刻とされ、町有形文化財に指定されています。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 摩利支天御堂 |
住所 | 秩父郡横瀬町横瀬5108 |
宗派 | |
本尊 | 准胝観世音菩薩像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
摩利支天御堂の縁起
摩利支天御堂の縁起については不詳ながら、久那の新井氏が所持していたものと伝えられる摩利支天像を、地元の剣術家加藤平八から気楽流柔術十四代本橋惣五郎が譲り受け、横瀬村小名持山寺にあった阿弥陀堂(堂宇)を明治43年に移し、摩利支天像を奉安したといいます。昭和48年本橋武次氏の申し出により、当地日向新地へ移管、日向新地で管理奉祀しているそうです。摩利支天像は、江戸初期の彫刻とされ、町有形文化財に指定されています。
境内石碑による摩利支天御堂の縁起
日向耕地移管覚竝修復記念碑
摩利支天堂は明治後期戸田筑後守十四代気楽流市販本橋惣五郎とその門弟及日向耕地有志によって持山寺阿弥陀堂を此の地に移転して摩利支尊天を祀り武道家の鎮守として深く崇敬し今日に至る物なり。然るに今度右堂宇を本橋武次氏の申し出により昭和四十八年十月七日日向新地に移管を決定す。従って堂宇の敷地及祭事に供する用具一式等については日向耕地住民によりこれを管理し祭事一切を司るものとす。尚参道に関しては本橋昭三氏小泉武三郎氏より所有地を現状のまま使用する旨承諾を得たる件を念書して後世の資となす。又堂宇移管に伴い日向耕地信徒及崇敬者各位の浄財により御堂及境内の修復工事を行うものとす、
昭和五十一年二月八日に工事を完成し茲に記念碑を建立するものなり。(境内石碑より)
新編武蔵風土記稿による摩利支天御堂の縁起
(横瀬村)
持山
是も武甲山の内にて、東南に續けり、一の路地位より堂のありし跡まで、三十町程、傳へ云、往古上杉伊豆守重能鎌倉より敗績して、茲に忍び居れりとぞ、其後根古屋に移住せるよし、【秩父風土記】には、伊豆守憲政とあれども疑はし、その後田村圓福寺五世の僧、祖圓和尚この山に閑居し、一寺を營み、阿彌陀山念佛寺と號せし由、いつの頃には廢寺となれり、祖圓俗姓は忠長卿の息、長七郎殿とこそきこゆ、この寺地より西北にあたり、巌下に入定場と云るあり、開山某和尚の化せし地なりと、五輪の塔あり、正面に刻するは、阿彌陀山念佛寺光西坊、右には元和八年四月十五日伊奈半十郎・富田吉右衛門、左には此石塔菩提人二千萬人大供養、男子女子共成佛、井上雅楽介・富田内匠・高野七右衛門、爲三界人々也と勒せり、塔の高さ八尺餘、又寺域より谷川をへだてゝ三町許、南にあたり少の平らに觀音の跡あり、盤岩の下に石佛及び石塔あり、天和四年とのみ見ゆ(新編武蔵風土記稿より)
摩利支天御堂の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿