福岡新田大杉神社。ふじみ野市指定文化財の奉納額
福岡新田大杉神社の概要
福岡新田大杉神社は、ふじみ野市福岡新田にある大杉神社です。福岡新田大杉神社は、船頭や船関係者の守護を祈願し、明治11年(1878)に茨城県河内郡阿波村(現稲敷郡桜川村阿波)の大杉神社を分霊して創建したといいます。当時は、新河岸川を利用した舟運が盛んで荒川や利根川・鬼怒川などを行き来していたことから、船の難破を防ぐ霊威の強い大杉神社を勧請したものだといいます。明治18年に奉納された額は、ふじみ野市文化財に指定されています。
社号 | 大杉神社 |
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祭神 | 大物主大神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | ふじみ野市福岡新田107 |
備考 | - |
福岡新田大杉神社の由緒
福岡新田大杉神社は、船頭や船関係者の守護を祈願し、明治11年(1878)に茨城県河内郡阿波村(現稲敷郡桜川村阿波)の大杉神社を分霊して創建したといいます。当時は、新河岸川を利用した舟運が盛んで荒川や利根川・鬼怒川などを行き来していたことから、船の難破を防ぐ霊威の強い大杉神社を勧請したものだといいます。
境内掲示による福岡新田大杉神社の由緒
「船が着いたや吉野屋の河岸に「早くトレトレおてもやも…」は、下福岡の船頭歌の一説である。
この下福岡の地は、先祖代々新河岸川舟運の舟頭を職業としている人々が多く居住していた村で、舟運が終わりをつげる大正時代まで、福岡河岸や古市場河岸の回漕問屋の荷物を取り扱う船待船頭として活躍していた。
数多くの船頭が住んでいたことから、舟運関係者の守護神として大杉神社が明治十一年(一八七八)祀られた。祭神は、常陸国河内郡阿波村(現稲敷郡桜川村阿波)の大杉神社(本社)祭神である大物主大神の分霊を招請したもので、暴風雨などによる船の難破を防ぐ霊威があるため、船頭の信仰が厚かった。
また、拝殿裏に、神社が建設された年より五十二年前の文政九年(一八二六)に福岡村の吉野茂吉、同伊左衛門によって建立された「大杉神社 船玉宮 水天宮三社大明神奉鎮座 船中安全 村中安穏」の石碑があることから、この地は神社が祀られる前からの聖地として舟運関係者や村民より深く親しまれた場所であったことがわかる。
当社の拝殿内にはふじみ野市指定有形民俗文化財の奉納額がある。額の左右には、ご身体である天狗が配されており、下福岡の船頭や新河岸川・荒川・利根川・鬼怒川など関東一円の船頭・船大工など百人余りが、船の安全祈願のために奉納したもので、明治十八年九月吉日の日付が入っている。
祭礼は毎年九月二十七日で大正時代までは、船神楽や芝居が行われ大変賑わっていた。その頃まで、船頭たちは上り下りの船上から神社(大杉様)に向かって賽銭を投げ、運航の無事を祈っていたという。また、船頭衆の中から代表二人を選んで、年一回成田方面を経て利根川を渡って茨城県の大杉神社(本社)へ代参講に行き、その折、もらったお札をセジ(船中で船頭が生活する部屋)の神棚に祀っていた。(埼玉県上福岡市掲示より)
「上福岡市史資料編」による福岡新田大杉神社の由緒
大杉神社
下福岡地区の西、福岡橋のかかる新河岸川右岸の川縁にある。祭神は大物主命で御神体は天狗の面である。
下福岡地区は、近世から明治にかけての舟運の盛んなころには、現富士見市の上南畑村と並び、「船頭の村」と呼ばれるほど船頭が多いところであった。
当社は、船頭や船関係者の守護を祈願し、明治一一年(一八七八)に茨城県河内郡阿波村(現稲敷郡桜川村阿波)の大杉神社を分霊して下福岡に建立されたものである。
大杉神社はあんば大杉大明神として、近世中期には利根川流域などで広く疱瘡神として祀られ、享保一二年(一七二七)には江戸で大杉あんば囃子が大流行したことで知られる。一方、荒川・新河岸川流域でも舟運関係者を中心に信仰が広がり、その分社は荒川で二か所、新河岸川で四か所を数える。それら社の多くが小祠であることに比べ、当社は社殿・鳥居を有する神社の体裁を整えている。
明治一一年に作成された「今宮大杉神社分霊祠設立有志金額記簿」(下福岡地区文書)によれば、神社の創建の中心になったのは、福岡河岸の吉野吉蔵(吉野屋)・吉野三之助(江戸屋)・星野仙蔵(福田屋)の三名である。
社殿内の基壇には、神社創建にたずさわった代表者の出身地と名前が記されている。出身地を見ると、市域である福岡村・中福岡村・福岡新田・川崎村をはじめとして、現富士見市の鶴間村・勝瀬村・水子村、現川越市の渋井村・古市場村、本社大杉神社のある阿波村と市域を越えて寄付が集まったことを示している。(「上福岡市史資料編」より)
福岡新田大杉神社所蔵の文化財
- 大杉神社奉納額(ふじみ野市指定有形民俗文化財)
- 梅年句碑
大杉神社奉納額
社殿の中には、明治十八年(1885)九月吉日に新河岸川を通じて荒川・江戸川・利根川・中川・鬼怒川など関東各地の船頭約百人の名入りの天狗の面付き(2面)額が奉納されています。右側がからす天狗・左側が赤顔長鼻の天狗えす。木製の奉納額は、縦100センチメートル、横215センチメートルの大きさです。(境内掲示より)
梅年句碑
「兎角して 来須に盤おかぬ、し九連哉」
明治時代に日本の俳壇において重きをなした俳人の一人、雪中庵梅年の句です。
梅年は、文政四年(1821)現在の川越市並木の小林家で生まれました。父親と早く死別し、下福岡にある母親の実家の原田家で育てられ、原田幸次郎と名乗りました。川越での足袋職人修行の後に、江戸深川で足袋店を営み、そのかたわら俳諧を学びました。
天保八年(1837)十七歳で松尾芭蕉の系譜を引く雪中庵対山の門下となり、明治七年(1874)に八世雪中庵を継承し、引退後は不白軒を名乗りました。
晩年の梅年は、東京と福岡村(現在のふじみ野市)をはじめ、川越南部から入東郡東部一帯の地域との間を往復して熱心に活動しました。
昭和四十六年一月、雪中庵梅年顕彰会と福岡町教育委員会(当時)は、当地方における俳諧の伝統文化を遺した梅年の功績を讃え、後世に伝えるために句碑を建立しました。(境内掲示より)
福岡新田大杉神社の周辺図
参考資料
- 「上福岡市史資料編」