苗間神明神社。神木弥勒郎が永正年間に開拓した地
苗間神明神社の概要
苗間神明神社は、ふじみ野市苗間にある神明神社です。苗間神明神社の創建年代等は不詳ながら、神木弥勒郎が永正年間(1504-1521)に開拓した地だと伝えられ、伊勢神宮に参拝して分霊を勧請したとも伝えられます。江戸期には苗間村の鎮守として祀られ、明治5年村社に列格、明治22年には苗間に鎮座していた古六天社、子の権現社、熊野神社、天満天神社、稲荷神社、八雲神社を合祀しています。
社号 | 神明神社 |
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祭神 | 天照大神 |
相殿 | - |
境内社 | 古六天社、子の権現社、熊野神社、天満天神社、稲荷神社、八雲神社 |
祭日 | 春例祭4月15日、八雲神社祭礼7月25日前後、秋例祭10月15日 |
住所 | ふじみ野市苗間372-1 |
備考 | - |
苗間神明神社の由緒
苗間神明神社の創建年代等は不詳ながら、神木弥勒郎が永正年間(1504-1521)に開拓した地だと伝えられ、伊勢神宮に参拝して分霊を勧請したとも伝えられます。江戸期には苗間村の鎮守として祀られ、明治5年村社に列格、明治22年には苗間に鎮座していた古六天社、子の権現社、熊野神社、天満天神社、稲荷神社、八雲神社を合祀しています。
境内掲示による苗間神明神社の由緒
苗間神明神社
江戸試合の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、この神明神社は苗間村の鎮守であり、東側近くにあった浄禅寺(廃寺)の管轄下にあることが記載されています。
当社も各地に祀られている神明神社同様、伊勢神宮の天照大神の神霊を移し祀り祭神としています。しかしながら創建の時期については、それを記す記録が無いため正確な創建時期は不明です。また同じく『新編武蔵風土記稿』に、苗間村には、神明神社と併せて浄禅寺の管轄の神社として天王社(現八雲神社)第六天社(現古六天社)、天神社、稲荷社、熊野権現社が村民により祀られている、と記されていますが、これらの社はいずれも明治時代以降、神明神社境内に合祀されています。
本殿の背後には樹齢四百年と推定される樹高約二十五メートルの大けやきが、また社殿西脇には明治初期の創建とされる煉瓦造りの常夜灯があり、いずれもふじみ野市の文化財に指定されています。(ふじみ野市教育委員会・ふじみ野市文化財審議委員会掲示より)
「埼玉の神社」による苗間神明神社の由緒
神明神社<大井町苗間三七五(苗間字神明後)>
縄文前期、当社の鎮座する苗間付近まで奥東京湾が入り込み、武蔵野台地の東端は半島状に突き出していた。当地をはじめ、川越・上福岡・富士見などの台地の先端には縄文や弥生の遺跡が多く見られる。
苗間は上福岡と富士見のこうした半島状に突き出た台地の間に挟まれており、古くは波間とも称したと伝える。
当社は社記に「往古、里人が挙って伊勢神宮に参拝し、御幣を拝受して帰り、それを斎祀したのが当社の創祀である」とあり、また「当地は神木弥勒郎が永正年間に開いた地」ともいう。以上のことから当社は往古、飛神明の信仰か、伊勢の御師の影響によって創建された社ではないかと考えられる。
明治五年に当社は古くから苗間村の鎮守であることから村社となった。更に、大井村編入後、昭和一一年に神饌幣帛料供進神社に指定された。
祭神は大日孁貴尊であり、現在の本殿は明治七年の再建である。
境内に古六天社が祀られており、口碑によると、氏子の神木家が祀っていた社といい、文化元年に境内に移転されたものである。ほかに八雲神社と子の権現・熊野・天満・稲荷の四社合殿社、弁天石碑があるが、これは明治二二年に合祀されたものである。(「埼玉の神社」より)
新編武蔵風土記稿による苗間神明神社の由緒
(苗間村)
神明社
村の鎮守なり
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天王社
第六天社
天神社
稲荷社
熊野權現社
以上六社ともに浄禅寺持、(新編武蔵風土記稿より)
苗間神明神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)