難波田城跡。富士見市下南畑にある旧跡・名所

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難波田城跡。富士見市下南畑にある旧跡・名所

難波田城跡の概要

難波田城跡は、富士見市下南畑にある名所旧跡です。難波田城跡は、承久の乱で戦死にした金子小太郎高範の子孫が、鎌倉幕府より当地を恩賞として与えられ、難波田氏と名乗り、城館を構えた地です。天文年間には難波田弾正憲重(法号善銀)が、上杉管領に仕へ、當國横見郡松山の城代を兼ねていましたが、天文15年(1546)の河越夜戦で戦死、難波田は北条家の領内となり、上田周防守が難波田城主となっていましたが、小田原北条氏滅亡に伴い、難波田城も廃城となりました。なお、江戸時代には、修験寺院の大寺十玉院が当地に建てられていました。

難波田城跡
難波田城跡の概要
旧跡・名所名 難波田城跡
みどころ 埼玉県旧跡
入場時間 -
入場料 -
住所 富士見市下南畑、難波田城公園
備考 -




難波田城跡の縁起

難波田城跡は、承久の乱で戦死にした金子小太郎高範の子孫が、鎌倉幕府より当地を恩賞として与えられ、難波田氏と名乗り、城館を構えた地です。天文年間には難波田弾正憲重(法号善銀)が、上杉管領に仕へ、當國横見郡松山の城代を兼ねていましたが、天文15年(1546)の河越夜戦で戦死、難波田は北条家の領内となり、上田周防守が難波田城主となっていましたが、小田原北条氏滅亡に伴い、難波田城も廃城となりました。なお、江戸時代には、修験寺院の大寺十玉院が当地に建てられていました。

境内掲示による難波田城跡について

難波田氏の歴史と難波田城
平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活動していました。その一つの村山党の中心に、金子氏がいました。金子小太郎高範は、鎌倉時代の承久の乱に参戦して討ち死にしました。その恩賞として幕府から、高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、その子孫が「難波田氏」を名乗るようになりました。
南北朝時代には、羽祢蔵合戦で高麗経澄の軍勢と戦って敗れましたが、戦国時代になると難波田弾正善銀が扇谷上杉氏の重臣として活躍しました。しかし、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏と戦い、敗れて討ち死にしました。その後、難波田氏一族は北条氏の家臣となり、難波田の土地は北条氏の家臣上田氏が支配しました。しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたために難波田城は廃城となりました。
難波田城は江戸時代に作られた絵図などに描かれています。城は最初小さなものでしたが、戦国時代に難波田弾正善銀が活躍する頃に、大規模に改造されたと考えられます。江戸時代には、城跡に修験寺院の十玉院が建てられました。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による難波田城跡について

(下南畑村)南畑城蹟
村の中央より少く東によりにて、修験十玉院の住る所其地なり、其城趾は何頃築きしや、其はじめを詳にせず、土人云天文の頃上杉家に仕へし難波田弾正憲重が居城なりと、憲重は當国七黨の内村山黨にて、金子六郎家範の子難波田小太郎高範の後裔なり、上杉管領に仕へ、當國横見郡松山の城代となる、天文十四年憲重等がはかりひに因て、古河の晴氏上杉憲政に合力ありて、當郡河越に出馬し、大軍をもて北條上総介が籠りし河越城を責しが、明る十五年も落城の色見えざりけり、されど城中既に難儀の由小田原に聞えければ、北條左京大夫氏康後詰として、同き年四月廿日彼陣に押寄、一戰ありしを晴氏憲政の軍敗北し、憲重が父子三人其邊りの燈明寺口にて討死す、法謚を善銀と云、此人頗武功の勇士にて、其頃の軍記等にもほぼ露顯せし人なり、猶委しくは横見郡小屋村松山城蹟の條に出せり、憲重討死の後此邊總て北條家の分國として、其旗下上田周防守某在城せしが、天正十八年の後廢城となれり、今城跡のさまを見るに四方二町餘の地にて、追手は南の方小名宿畑と云る邊なり、土居及び堀の遺跡は四方に見ゆ、西の方に櫓臺の跡あり、夫より一町餘を隔てゝ馬場蔵屋鋪などの蹟殘れり、東の方三町許に代官屋鋪の跡あり、土人の話に昔は外廓ありて、堀を二重に構へし由、此邊の小名要害と云るは其名殘なりとぞ、今も此処より西蔵院・萬蔵院の住る邊まで古松など所々にありて、古へのさまを想像すべし、又此所より西の方一町許を去て少しく高き所に五輪の石碑あり、文字漫滅して讀べからず、其傍に斷碑三基立り、建武・永享・文安の年號僅に見ゆ、由来詳ならず、是等もし難波田氏の碑なるにや、(新編武蔵風土記稿より)


難波田城跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」