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大井戸弁天の森。ふじみ野市大井にある旧跡・名所

大井戸弁天の森の概要

大井戸弁天の森は、ふじみ野市大井にある名所旧跡です。大井戸弁天の森は、江戸時代初期に不忍池弁財天を勧請して祀られた大井清水弁財天のあった地域一帯で、豊かな清水が湧き出ていることから、明治時代中頃には船から景色を楽しむ観光名所として賑わったそうです。湧き水が涸れてしまったことから昭和初期には観光は廃れてしまい、額堂も老朽化に伴い解体されたものの、現在は人工的に水を引いて整備されています。

大井戸弁天の森
大井戸弁天の森の概要
旧跡・名所名 大井戸弁天の森
みどころ 名所
入場時間 -
入場料 -
住所 ふじみ野市大井
備考 -




大井戸弁天の森の縁起

大井戸弁天の森は、江戸時代初期に不忍池弁財天を勧請して祀られた大井清水弁財天のあった地域一帯で、豊かな清水が湧き出ていることから、明治時代中頃には船から景色を楽しむ観光名所として賑わったそうです。湧き水が涸れてしまったことから昭和初期には観光は廃れてしまい、額堂も老朽化に伴い解体されたものの、現在は人工的に水を引いて整備されています。

境内掲示による大井戸弁天の森について

大井弁天の由来
弁天は、七福神の弁財天から名づけられたもので弁財天は、もともと河のせせらぎの音が神になったと言われております。河のせせらぎの音を連想され音楽を始めとする技芸、学問又、豊作をもたらしてくれる神様として深く信仰され、現在も七人の福徳の神として多くの人々から親しまれております。ここ大井弁天も「ハケ」(台地の崖)がある地形のため豊かな清水が湧き出る土地から、弁天様を祀られたと言われます。
最盛期の明治時代中頃には、商人連による常夜塔などがいたるところに建てられたいへん賑わい、当時の観光スポットとしても人気を呼び江戸時代から新河岸河の舟運でのぼり、この大井弁天にお参りするのが当時の人気コースだったようです。
今日でも、四季を通じ特に桜の名所として地元はもとより近隣から訪れ、憩いの場として多くの方々に利用されております。
ここに組合事業の完成を記念し、人と人とのかけ橋になりますよう願いを込めて建立いたしました。(大井町教育委員会・大井町大井・苗間第一土地区画整理組合掲示より)

「入間郡誌」による大井戸弁天の森について

(大井)嚴島祠
宿の東に當り、高臺の下、低地に居り、清泉湧出し、池水透明、社地として最も可、其古来人口に膾炙せるも宜なりと云ふべし、但近年漸く毀廢に向はんとす(「入間郡誌」より)

大井清水弁財天について

昔から「大井弁天」として親しまれてきた弁天様は、厳島社とも称し、江戸時代初期、今の上野不忍池(東京都台東区)の弁天様から分霊したと伝えられています。池は、砂川堀の昔の川の跡が残ったもので、本殿には木像の弁天様がまつられていました(現在は、徳性寺に移されている)。
この弁天様にはこんな話が残されています。
昔、南畑村(現在富士見市)に与右衛門・おくりという大工の夫婦が住んでおったとな、二千にはお花というたいそう器量良しの娘がおったそうな。ある時お花の体中にできものができ、さっぱりよくならん。ある日与右衛門が大井の里で仕事をしている時、切り株にすわってついうとうと寝入ってしまった。するとどこからか弁天様があらわれ、「与右衛門、大井の里にはそれはきれいな水の湧く所がある。その水を汲んで娘の体を洗っておあげ」といって消えた。さっそく与右衛門はその水を探し、汲んで戻り、お花につけるとたちまち病は治ったそうじゃ。
その話しを伝え聞いた人たちが、近隣はもちろん江戸方面からも多く参拝にやってきました。また、日照りの年には、農家の人たちが雨乞いを行いました。とくに、最盛期の明治中頃には縁日ごとに露店がならび、たいへんなにぎわいであったといわれています。しかし、昭和の初めころには、湧き水がほとんど涸れてしまったため、参拝者は減少してしまいました。
あずまやのあるところには、かつて三間(約四・五m)四方の大きさの「御籠堂(額堂)」がありました。寛政年間(一七八九~一八〇一)に南畑村で建てられた建物を、明治初期にこの地に移し、御籠堂にしたと言われています。
昭和十一年(一九三六)に、大字大井の人々によって屋根の本格的な修理も行われたようですが、老朽化が進み、平成元年(一九八九)に解体されました。あずまやの四隅には、当時の御籠堂の礎石が埋め込まれています。
池の水は、涸れてから一度再び湧き出しましたが、砂川堀の改修工事後に再び涸れてしまったため、現在は人工的に引いています。(ふじみ野市教育委員会掲示より)


大井戸弁天の森の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」