楡山神社。延喜式式内社、幡羅郡の総鎮守、旧県社
楡山神社の概要
楡山神社は、深谷市原郷にある神社です。楡山神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代につくられた「延喜式神名帳」に記載される式内社で、幡羅郡の総鎮守として祀られていました。中世以降の熊野信仰の流行により熊野社と称していたものの、地元の村民は楡山神社と呼び続けていたといいます。明治維新後楡山神社を改称、明治5年郷社に列格、大正12年県社に列格していました。
社号 | 楡山神社 |
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祭神 | 伊邪那美命 |
相殿 | - |
境内社 | 荒神、天神、天照皇大神、妙見星神、招魂社、北向稲荷社、八坂神社、雷電社、手長社、道祖神、大雷神社 |
祭日 | 例大祭10月20日 |
住所 | 深谷市原郷336 |
備考 | - |
楡山神社の由緒
楡山神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代につくられた「延喜式神名帳」に記載される式内社で、幡羅郡の総鎮守として祀られていました。中世以降の熊野信仰の流行により熊野社と称していたものの、地元の村民は楡山神社と呼び続けていたといいます。明治維新後楡山神社を改称、明治5年郷社に列格、大正12年県社に列格していました。
境内掲示による楡山神社の由緒
当神社は、平安時代に編さんされた「延喜式神名帳」に記載されている古い神社で、幡羅郡の総鎮守であり、祭神は伊邪那美命である。
「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に楡の木が繁茂したことによる。境内の正面に神木とされる樹齢約六〇〇年の楡の木があり、樹高約九メートル、幹回り約三・六メートルで、天然記念物として県の指定を受けている。
江戸時代は、「熊野三社大権現」と号したが、明治の神仏分離により社号を楡山神社にもどした。
二月の節分祭は近郊の人々でにぎわい、赤鬼・青鬼の人形を奪い合う珍しい風習がある。
また、深谷市指定文化財として、和琴・磐笛・佐文山筆熊野三社大権現扁額がある。(埼玉県・深谷市掲示より)
新編武蔵風土記稿による楡山神社の由緒
(原ノ郷)
熊野社
この社を土人楡山神社と唱へ、郡の惣鎮守なり、社地は松杉繁茂せる内に、楡の古木あり、又社の南に續き二段許の御林にも、楡の古木多く、其内周徑一丈五六尺に及ベルあり、社地の様いと舊ければ、土人の唱る如くにて、【延喜式】神名帳に載る所の楡山神社なりや、外に據はなし、
末社。稲荷社、天神
鐘樓。天明八年鑄造の鐘をかく、
社守庵。
別當正徳院。天台宗、榛澤郡西嶋村瑠璃光寺末、熊野山能泉寺と號せり、本尊阿彌陀を安ず、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による楡山神社の由緒
楡山神社<深谷市原郷三三六(原ノ郷字八日市)>
原郷は『明細帳』に「当地ヲ古ヘ幡羅ト云ヒシヲ近世漢字ヲ転用シテ原ノ郷ト改メシト古老ノ口碑ニ伝フ」とあるように、『和名抄』に見える幡羅郷の遺名とみられ、その意味は「原」である。
また、鎮座地の小名である八日市は、当地がいにしえの郡衙所在地であり、その中心にあった神社にかかわる市の遺名であろう。
当社は、『延喜式』神名帳に載る「楡山神社」として誤りはないと思われる。『特選神名牒』『神社覈録』『武蔵国式内四十四座神社命附』など、いずれも当社を式内社としている。なお『式社考』が、妻沼の聖天社を、『巡礼旧神詞記』が、久保島村の山神大権現を、それぞれ式内社楡山神社としているが、二説とも根拠はない。
『風土記稿』は、当社を熊野社として「この社を土人楡山神社と唱へ、郡の総鎮守なり、社地は松杉繁茂せる内に、楡の古木あり、又社の南に続く二段許の御林にも、楡の古木多く、其内周徑一丈五六尺に及べるあり」と記している、また、社伝によると、社名の楡山は、神域内に楡が多く茂っていたことにより起こるといい、現在も境内に楡古木があり、楡山神社の大楡と呼ばれ、県指定文化財となっている。
当社が、熊野三社大権現と称した時期があるが、これは中世、熊野信仰が流布されて、本山派修験である東学院と大乗院が別当として当社に関与し、熊野三社を勧請したためであり、社号額に佐々木文山筆「熊野三社大権現」とある。また、近くを流れる福川には「権現堂橋」が架かり、往時当社がこのように呼ばれていたことを伝えている。
安永元年(一七七二)榛沢郡大塚の根岸伊兵衛が著した『武乾記』に、当社を「今幡羅郡の総鎮守なり、往古幡羅太郎再興せしと云、其以前の事は詳かならずと云、古くは社家もありしが皆絶家したり、曾て当社の北に神田も数十町ありしと云へど、今は少なくなるべし」と当社が広い神田を有していたことを述べている。
『郡村誌』は、当社の創建を「口碑に孝昭天皇の時鎮座」を載せているが、その根拠は不詳である。しかし、当地が古くから開けた所で豪族の拠点ともなるほどの水田が広がる地であったことは、『続日本後紀』巻三、承和元年(八三四)二月条の「武蔵国幡羅郡荒廃田百廿三町奉充冷然院」によっても知られる。
当社は、古代の当地が「原」と称する広い平坦地で、ここに居住した人々が、福川の水を利用して田を作り、その祖先を祀ったものであろう。本殿裏に塚跡があり、氏子は不入の地として足を踏み入れない。あるいは、古い祭神のゆかりの塚であるかもしれない。
祭神は、古くは猿田彦命であるが、現在は伊邪那美命としている。
祀職は、中世を東学院。大乗院、近世が瑠璃光寺・正徳院、明治初期を近隣の神職兼任し、明治中期から柳瀬家が代々奉仕している。(「埼玉の神社」より)
楡山神社所蔵の文化財
- 楡山神社大ニレ(埼玉県指定文化財)
楡山神社大ニレ
楡山神社の御神木となっている古木で、目通り約三・六メートル、樹高約一〇メートル、樹令は約六〇〇年と推定されています。
ニレは、山地性の落葉樹で、ハルニレとアキニレがありますが、この木はハルニレです。ハルニレは皮を剥ぐと脂状にぬるぬるするところから別名ヤニレともいいます。樹皮からは繊維が採れ、縄などが作られました。北海道から本州の山地に自生していますが、この木は、関東地方の平地部にあるという点で貴重です。
楡山神社は、平安時代につくられた「延喜式神名帳」に記載される古社で、幡羅郡の総鎮守です。「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に、ニレの木が繁っていたことによるといわれています。(埼玉県教育委員会・深谷市教育委員会掲示より)
楡山神社の周辺図