熊野大神社。深谷市東方の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

熊野大神社。延長5年創建の伝承、旧郷社

熊野大神社の概要

熊野大神社は、深谷市東方にある神社です。熊野大神社の創建年代等は不詳ながら、当地域は古くより拓け、延長5年(927)この地に枇杷の木を棟木として小祠を建て創建したと社記では伝えているといいます。また延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「白髪神社」ではないかとする説も提起されています。江戸期には東方村の鎮守として祀られ、明治42年に地内の五社を合祀、大正13年郷社に列格していました。

熊野大神社
熊野大神社の概要
社号 熊野大神社
祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男尊、事解男尊
相殿 -
境内社 八幡、阿夫利、鬼林稲荷神社、神明、雷電、諏訪、八坂、浅間、手長男、伊奈利、大杉、八坂、太宰府
祭日 春祭り・秋祭り
住所 深谷市東方1708
備考 -



熊野大神社の由緒

熊野大神社の創建年代等は不詳ながら、当地域は古くより拓け、延長5年(927)この地に枇杷の木を棟木として小祠を建て創建したと社記では伝えているといいます。また延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「白髪神社」ではないかとする説も提起されています。江戸期には東方村の鎮守として祀られ、明治42年に地内の五社を合祀、大正13年郷社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による熊野大神社の由緒

(東方村)
熊野社
村の鎮守なり、或説に當社は祭神伊弉册尊・素戔嗚尊・猿田彦命にて、延喜式内白髪神社なるを、いつしか熊野社と改めしなどいへど、社傳には其沙汰なく、且土人の口碑にも殘らざれば、いかがはあらん、又式内神社考には東別府村春日社を式内白髪神社と載たれど、外に據なければこれもいかがはあらん、兎に角定かならず、
末社。稲荷、天王、大杉明神
鐘樓。寛文二年の鐘をかく、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による熊野大神社の由緒

熊野大神社<深谷市東方一七〇八-一(東方字杉町)>
当地は、JR高崎線籠原駅の北西二キロメートル、櫛挽台地の北端にある。
東方の地名について、『明細帳』は「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」と記し、また、境内の「東方熊野社碑」には、日本武尊が、蝦夷を平らげての帰途、群馬県碓井峠に差し掛かった時、弟橘援を偲ばれて、東南を望み、三嘆して「吾妻はや」と言われ、これから当国を東国と呼ぶようになり、また「国の東にある当地を東方と呼ぶのもこの時に起こる」とある。
いずれにしても、当地は古くから開かれた所であり、地内には、家形埴輪が出土した古墳期の森吉古墳、奈良期から平安期にかけての堂明様遺跡がある。
当社の創建について、社記に「延長五年(九二七)この地に枇杷の木を棟木として小祠を建て、上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し、東方村と号す」がある。
当社創建にからむ問題として、当社が式内社白髪神社ではなかったかとする説が『大日本地名辞書』などにある。この説は古くからあったらしく、『風土記稿』は、当社を「熊野社 村の鎮守なり、或説に当社は祭神伊弉冊尊・素戔嗚尊・猿田彦命にて、延喜式内白髪神社なるを、いつしか熊野社と時を改めしなどいへど、社伝には其沙汰なく且土人の口碑にも残らざれば、いかがはあらん」と記している。このほかに『武蔵国式内四十四座神社命附』が、当社を式内社としている。
この問題は、明治・大正になっても続き、行政文書、大正五年七月二十九日に、埼玉県にあてた内務大臣一木喜太郎の「熊野大神社社号変更並祭神増加の件聴届難し」がある。これは、当地が清寧天皇の御名代白髪部にかかわると論証し、当社を延喜式の古訓による白髪神社と改称したい。更に、祭神に白髪武広国押稚日本根子尊(清寧天皇)を増加したいと、大正五年五月十日付で社掌栗原逸作が提出した願書に対するものである。
また、この時、埼玉県神職会が、県知事昌谷彰の諮問に答え、祭神は清寧天皇か、又は『新撰姓氏録』に見える白髪王ではないかとの見解を呈し、白髪主は開化天皇の皇子彦坐王四世の孫であり、彦坐王の子孫は東国と深い関係がある、としている。
更にこの式内社としての社名変更の発端を思わせる「幣帛」が、内陣に置かれている。これは「延喜式内白髪神社幣帛、神祇管領」と記され、これを納める筥には「惣鎮守白髪神社・熊野大神幣帛、幡羅郡大社東方村、明治三庚午年十二月改、天児屋根命末孫当社神主藤原朝臣青木興美」と墨書されている。
なお、吉田東伍『白髪神社擬定私考』に、「熊野の肩額二面あり、一は熊野大神と正面に刻し、右肩に白髪神社と細刻す、造立年代不詳なれど、百年は経たものである。一は正一位熊野大権現と題す」とあるが、現在確認できない。
今日では、この式内社白髪神社は妻沼の聖天山歓喜院説が有力である。当社が白髪神社であったか否かはさておき、棟木に枇杷の木を使った伝説や当地開発を考えると当社の創建もかなり古く設定できる。
享保九年(一七二四)の「正一位熊野大権現」の宗源宣旨と、同祝詞が
先の『擬定私考』に残されている。
この祝詞には「尊神の御嫌物と伝て御氏子等の中に黍を作り食する事を悪賜ふと是定て往昔禁賜ふ故有む然とも今極位を捧奉る神徳に依て後今以往此事を免賜ひ」とあり、往時、当地に黍に対する禁忌があったことをうかがわせる。
当社の社殿造営は、前述したように、延長五年(九二七)との社伝があり、更に、深谷城上杉氏の家臣秋之景朝・長朝父子により、天正年間(一五七三-九二)に造営が行われたとも伝えている。現在の社殿の造営は、内陣に納められた旧神鏡の台裏に「本ハ安氷七(一七七八)春青木大和守本穏代造之、後破損再興文政二己卯年(一八一九)十月下旬、神主青木大和守源信網代口口」の墨書があり、更に、本殿の扉金具に「安永九年庚子(一七〇)十二月吉日、金物施主川下り柴崎六之助」と刻まれているところから、安永七年から九年にかけて建立され、文政二年に修理が行われたものであろう。
明治四十二年に地内の五社を合祀し、大正十三年郷社となった。(「埼玉の神社」より)


熊野大神社の周辺図