本田八幡神社。征夷将軍多治比県守勧請の伝承
本田八幡神社の概要
本田八幡神社は、深谷市本田にある神社です。本田八幡神社は、征夷将軍多治比県守が東国を鎮撫した際、筥崎宮を勧請して創建したと伝えられます。また、畠山重忠に仕えた本田次郎近常が居住していたことから、畠山重忠と本田次郎近常が文治年間(1185-1190)に創建したとも伝えています。その後戦乱により当地一帯が荒廃したようで、江戸期には改めて本田村の持ち添え新田として開発され、当社は本田新田の鎮守として祀られ、明治7年には村社に列格、明治40年熊野神社を当社境内へ遷座しています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊、 |
相殿 | 神功皇后、玉依姫 |
境内社 | 白鳥社、榛名・山神・稲荷・雷電・天神・八坂・天照大神・東照宮・浅間・熊野、石祠4基 |
祭日 | 例祭4月15日、十五夜祭旧8月14日、秋日待10月15日 |
住所 | 深谷市本田138 |
備考 | - |
本田八幡神社の由緒
本田八幡神社は、征夷将軍多治比県守が東国を鎮撫した際、筥崎宮を勧請して創建したと伝えられます。また、畠山重忠に仕えた本田次郎近常が居住していたことから、畠山重忠と本田次郎近常が文治年間(1185-1190)に創建したとも伝えています。その後戦乱により当地一帯が荒廃したようで、江戸期には改めて本田村の持ち添え新田として開発され、当社は本田新田の鎮守として祀られ、明治7年には村社に列格、明治40年熊野神社を当社境内へ遷座しています。
新編武蔵風土記稿による本田八幡神社の由緒
(男衾郡本田新田村)
八幡社
村の鎮守なり東福寺持、
末社。天王、天神、山神、稲荷、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による本田八幡神社の由緒
八幡神社<川本町本田一三八(本田字八幡)>
社伝によると、当社の創建は養老六年(七二二)のことである。多治比県守が遺唐押使として渡唐の際、筥崎宮を拝し、その神助によって使命を全うした。その後、県守は征夷将軍に任じられ、東国を鎮撫し、その効を奏したことから、当地に筥崎宮を勧請して「筥崎八幡宮」と称したという。
本田には、渡来系氏族を示す百済木の地名や、七世紀後半から八世紀初頭の築造と推定される鹿島古墳群があり、早くから開けていた土地である。恐らく多治比氏とかかわる集団がこの地に存在していたのであろう。
本殿には、曲げ物に納められた八幡大明神像と神鏡が奉安されている。この曲げ物については『大里郡神社誌』に「昔県守の祀りし時より伝来せる真(神)璽なりと云ひ伝ふ高さ六寸位・径六寸位の円筒形の曲物に秘し開き見れば失明すと称す。又本田別命の胞なりと云ひ伝へ錦の袋を以て覆ふ十二年戌年に改むる例なり」と記されている。本社とされる筥崎宮の社名由来に「応神天皇生誕の折の胞衣を箱に入れ地に埋め、標の松を植え筥松とLた。古くこの地をお葺津浦といったが、これ以降箱崎と称するようになった」との伝えがあるが、曲げ物もこれにちなむものと考えられ、当社創建の古さを示す証となっている。
一方、真下勝太郎家所蔵の延享四年(一七四七)「武蔵園男衾郡本田郷御寺社書上帳扣写」には、当社について次のように記している。
御除地六百坪八幡宮地、文治五年(一一八九)畠山重忠之開基也、吉祥院盛山權大僧都法印、別当右吉祥院ト云山伏付屋敷者東福寺地也
当地は、平安末期から鎌倉期にかけて隣村である畠山に館を構えた畠山氏に仕えた本田次郎近常が居住した地といわれており、口碑に「文治年中に畠山重忠と本田次郎近常が協力して社殿を造営した」との伝えが残されている。この本田近常は、元久二年(一二〇五)に武州二俣川において、北条氏によって主人重忠と共に戦死を遂げたことが『吾妻鏡』に見える。
その後、近世に入るまでの当社の来歴は不明である。この地は上野国新田郷から鎌倉への道筋に当たるため、しばしば戦場となった。殊に応安三年(一三七〇)の本田合戦は有名で、幕府を攻めるため南下して来た新田氏に対して、幕府は上杉朝房・畠山基国を将として一万騎をもって、本田一帯に布陣し、町内にある舟山付近で激戦が展開された。このような中にあって、鎌倉武士の鑑と称された畠山重忠の崇敬した当社が、武蔵の武士団によって戦勝の祈願がされたことは想像するに難くない。
江戸期に入ると、当社のある辺りは、本田村の持ち添え新田として開発された。これにより本田新田村と称するようになり、元和二年(一六一六)に検地が行われた。
村の開発に伴い、当社は鎮守として崇敬されるようになり、『風土記稿』にも「八幡社 村の鎮守なり、東福寺持」と記されている。
また『大里郡神社誌』には「昔は二百五十石の社領ありと云伝ふれども明ならず。明治初年までは旗本石野家より御供料として林四町歩の寄附地ありしが、維新の際御取上げとなれり」とある。
別当については、先の「本田郷御寺社書上帳扣写」では、東福寺の地所に屋敷を構えていた「吉祥院ト云山伏」が日常の管理を行っていたことがうかがわれる。一方『大里郡神社誌』には、初め吉祥院東福寺と称する本山派修験が管理を行っていたが、嗣子を亡くして絶え、正保年間(一六四四-四八)に真言宗の僧が入って住職となったものの一世にして無住となり、その後を本山派修験の玉泉院が社務を司るようになったとある。いずれにしても別当の変遷は、東福寺が明治六年に焼失していることから、詳しいことは明らかでない。現在、東福寺跡地に残されている不動尊がその名残である。また、当社の境内にある白鳥神社は、この不動尊の霊を祀って明治三十六年に建てられたものである。(「埼玉の神社」より)
本田八幡神社の周辺図