日吉大神荒神社。深谷市国済寺の神社

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日吉大神荒神社。国済寺の陵翁令山禅師が勧請

日吉大神荒神社の概要

日吉大神荒神社は、深谷市国済寺にある神社です。日吉大神荒神社は、国済寺を康応2年(1390)に開山した陵翁令山禅師が、開山と同時に日吉大神・荒神社を勧請、いつしか合社として併せ祀るようになったといい、明治維新後には村社に列格していました。

日吉大神荒神社
日吉大神荒神社の概要
社号 日吉大神荒神社
祭神 大山咋命、火産霊神
相殿 -
境内社 八坂神社、稲荷、蚕影神社、猿田彦神
祭日 春祭り4月15日・秋祭り10月15日
住所 深谷市国済寺520
備考 -



日吉大神荒神社の由緒

日吉大神荒神社は、国済寺を康応2年(1390)に開山した陵翁令山禅師が、開山と同時に日吉大神・荒神社を勧請、いつしか合社として併せ祀るようになったといい、明治維新後には村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による日吉大神荒神社の由緒

(国済寺村国済寺項)
稲荷社。山王荒神合社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による日吉大神荒神社の由緒

日吉大神荒神社<深谷市国済寺五二〇(国済寺字並木道西)>
当地の開発は古く、深谷城主の上杉氏の祖である上杉憲英がこの地に館を置いたことに始まるといわれ、当初は庁鼻和と呼ばれていた。地内には、憲英が康応二年(一三九〇)に峻翁令山禅師を開山として建立した臨済宗の国済寺があり、憲英の館はその境内にあった。
社伝によると、日吉大神は、この国済寺の守護神として、開基と同時に近江の日吉山王から勧請したという。国済寺の開山陵翁令山禅師が、日吉山王を守護神として祀る比叡山延暦寺で具足戒を授かっている経緯から推して、当社の勧請に同禅師がかかわったことは間違いないであろう。また、併せて祀る荒神社は、日吉山王の摂末社である「山王二十一社」の中に見える竃般社を勧請したものと思われる。
『風土記稿』には、国済寺の境内社の一つとしてその名が見えるが「稲荷社山王荒神合殿」という形で表記されていることから、何らかの理由で稲荷社の合殿として祀られていた模様である。
江戸時代には、村名は国済寺と改められ、その鎮守は稲荷社(右の稲荷社とは別の社)であった。ところが、明治初年の神仏分離後、当社が村社となった。鎮守の稲荷社が国済寺持ちの社であったのに対し、当社は国済寺の境内社であったが、実際の祭杷は修験の龍法院が行っており、神仏分離後もこの龍法院が復飾して神職となっていることから当社を村社にしたものであろう。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による日吉大神荒神社の由緒

日吉大神荒神社は、大里郡幡羅村大字国済寺の鎮守なり。大山咋命を主神とし、相殿に火産霊命を祀る。口碑に此地元廰鼻祖郷と称いし頃、深谷城主上杉陸奥守憲英国済寺を創建するに、当里其境域に近江国日吉の社より分祀せしを、後年同所荒神社を合せ祀りきと傳う。明治七年五月村社に列す。旧殿いと狭く便よからぬふしもあれば、今年畏くも皇太子殿下御成婚記念の事業として氏子崇敬者胥謀り、同心協力多くの資金と労力とを寄進して社殿改築の工を竣へぬ。(境内掲示より)


日吉大神荒神社の周辺図