深谷富士浅間神社。深谷市本住町の神社

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深谷富士浅間神社。深谷城内鎮守の五社の一

深谷富士浅間神社の概要

深谷富士浅間神社は、深谷市本住町にある神社です。深谷富士浅間神社は、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、智形明神社と称して永享12年(1440)の勧請だといいます。寛永年間(1624-1645)には深谷城主酒井讃岐守が再興したと伝えられ、明治13年に富士浅間神社と改めています。

深谷富士浅間神社
深谷富士浅間神社の概要
社号 富士浅間神社
祭神 木花開耶姫命
相殿 -
境内社 稲荷神社、弁天社、琴平神社
祭日 -
住所 深谷市本住町16
備考 -



深谷富士浅間神社の由緒

深谷富士浅間神社は、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、智形明神社と称して永享12年(1440)の勧請だといいます。寛永年間(1624-1645)には深谷城主酒井讃岐守が再興したと伝えられ、明治13年に富士浅間神社と改めています。

境内掲示による深谷富士浅間神社の由緒

この社の祭神は木花開耶姫命、瓊瓊杵尊で、社宝は宗源宣旨と宗源祝詞である。
明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享十二年(一四四〇年)勧請と伝えられている。江戸時代、寛永年間深谷城主酒井讃岐守が再興した。
深谷城は、上杉房憲が康正二年(一四五六年)古河公方との草いに備えて築城したもので、天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略により落城した。江戸時代には、松平、酒井氏が居城したが、寛永十一年(一六三四年)廃城となった。この城は低湿地に取り巻かれた平城で、社をめぐる池と水路は深谷城外濠の名残りをとどめている。(深谷上杉顕彰会掲示より)

「埼玉の神社」による深谷富士浅間神社の由緒

富士浅間神社<深谷市深谷六六九(深谷字知形)>
当社は、内陣に納めた享保六年(一七二一)の宗源宣旨に「正一位智形大明神」とあるように、本来は智形神社であった。これを『明細帳』が「明治十三年九月十三日、富士浅間神社ト改ム」と記すように、明治初年の混乱期に変更したものである。
当社の創建は不詳であるが、社記に「当社は、深谷城築造(康正二年・一四五六)以前から当所の氏神として祀られ、智形大明神と称えていた。下って、深谷城上杉氏時代には城の鎮守となり、以後、代々の城主に崇敬され、寛永年間(一六二四-四四)酒井讃岐守城主の時、社殿を再建した」とある。
智形・千方・千形を社名とする神社は、当社のほかに市内伊勢方・羽生市堤・加須市中央・岡市土手にあり、いずれも当地に近い所にある。このほかでは、東北線小山駅に近い栃木県田間と小山市武井に見られるのみで、地方的神社といえる。
智形神社とは、羽生市堤の千方神社を、『風土記稿』が「俵藤太秀郷の男を祀る所なり、按に秀郷が六男修理大夫を千方と云、此人を祀りしなるべし」と述べているように、藤原千方公を祀る神社である。
平将門の乱に功績のあった秀郷は、武蔵守に任じられ、以後、子孫は東国に繁栄した。その一つが下野の小山氏であり、古代には当地もその支配下にあった。当社の創建は小山氏とかかわるのであろう。(「埼玉の神社」より)

新編武蔵風土記稿による深谷富士浅間神社の由緒

(深谷宿)智形明神社
宝珠院持、古城跡にあり(新編武蔵風土記稿より)


深谷富士浅間神社の周辺図