満福寺。深谷市畠山にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

白田山満福寺。畠山重忠公が中興、守り本尊の千手観音像

満福寺の概要

真言宗智山派寺院の満福寺は、白田山観音院と号します。満福寺は、弘誓房深海上人が鳥羽天皇の御代(1110年頃)に草創、畠山重忠公(寶梁院實山宗眞大居士)が寿永年間(1182-1184)に再興して自身の菩提寺としたといいます。観音閣の本尊千手観音像は、重忠公の守本尊だったと伝えられます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石余の御朱印状を受領していました。

満福寺
満福寺の概要
山号 白田山
院号 観音院
寺号 満福寺
住所 深谷市畠山931-1
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



満福寺の縁起

満福寺は、弘誓房深海上人が鳥羽天皇の御代(1110年頃)に草創、畠山重忠公(寶梁院實山宗眞大居士)が寿永年間(1182-1184)に再興して自身の菩提寺としたといいます。観音閣の本尊千手観音像は、重忠公の守本尊だったと伝えられます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石余の御朱印状を受領していました。

境内掲示による満福寺の縁起

満福寺
白田山観音院満福寺は、真言宗豊山派の寺院で鳥羽天皇(一一一〇年頃)の御代に弘誓房深海上人が草創した。
後に畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩提寺としたものである。
本尊は不動明王、制吒迦、矜羯羅両脇侍の三尊立像で彩色の宮殿に安置され、須弥壇、前机とともに町指定文化財になっている。
現本堂は、以前は講堂で間口十間、奥行七間あり、寛政四年(一七九二年)建立のものである。
重忠公の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、太刀、長刀、大般若経、御朱印状等が伝えられている。
別棟の観音閣には、重忠公の守本尊(等身大)である六尺三寸の千手観音像が安置され、秩父坂東西国百番観音像、算額絵馬(和算家が自己の発見した数学の問題や解法を書いて奉納した絵馬)等がある。
また、当寺の裏には、彰義隊士水橋右京之亮の墓、重忠廟の牌もある。(埼玉県掲示より)

新編武蔵風土記稿による満福寺の縁起

(男衾郡畠山村)
満福寺
新義眞言宗榛澤郡針ヶ谷村弘光寺末、白田山觀音院と號す、慶安元年寺領十石餘の御朱印を附せらる、寺傳に云當寺は鳥羽院の御宇、弘誓房深海法印草創せらる道場にして壽永年中畠山次郎重忠再造し、其後元久二年本寺弘光寺の僧宥玉中興して、諸堂以下を造立すと云々、重忠元久二年八月十八日卒し、寶梁院實山宗眞居士と追號すと、按に【東鑑】に據ば、重忠が死せしは元久二年六月廿日なり、月日誤れるならん
什物。
茶碗一
茶釜一。以上重忠所持のものと云、眞偽は姑く捨て、最も古色に見ゆれば、其圖を出す、
觀音堂。是當寺の本尊なり、千手觀音の立身長六尺三分、行基の作にて、重忠の守佛なりしと云、
畠山次郎重忠墓。觀音堂の後にあり寶暦十三年住持光龍が再造する所なり、碑面に重忠廟と題す、此碑の左右に五輪の塔二基あり、是も畠山氏の族の墓なるにや古色甚しくして、文字は皆讀べからず、按に重忠が元久二年に討死せし後、かの後室再嫁し、後の夫妻義純其遺跡を領し、ことに當寺は重忠中興の故をもつて、こゝに墳墓を造りしは據なしとせず、重忠が事蹟は【東鑑】に往々露顯す、今【日本史】将軍家臣傳に載る所を、左に録して参考に備ふ、
(【日本史】引用箇所、漢文約5頁。割愛)(新編武蔵風土記稿より)


満福寺の周辺図