川島久伊豆神社。蓮田市東の神社
川島久伊豆神社の概要
川島久伊豆神社は、蓮田市東にある神社です。川島久伊豆神社の創建年代などは不詳ながら、元荒川流域沿いに数多く奉斎されている久伊豆神社の一つで、江戸期には川島村の鎮守として祀られていました。
社号 | 久伊豆神社 |
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祭神 | 大己貴命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、稲荷社、三宝荒神社、弁天社 |
祭日 | - |
住所 | 蓮田市東3-9-10 |
備考 | - |
川島久伊豆神社の由緒
川島久伊豆神社の創建年代などは不詳ながら、元荒川流域沿いに数多く奉斎されている久伊豆神社の一つで、江戸期には川島村の鎮守として祀られていました。
新編武蔵風土記稿による川島久伊豆神社の由緒
(川島村)
久伊豆社
村の鎮守なり、地蔵院持。
末社。天神、荒神、稲荷、雷電(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による川島久伊豆神社の由緒
久伊豆神社<蓮田市川島八六二(川島字宮面)>
元荒川にかかる宮前橋のそばに鎮座する当社は、大巳貴命を祭神とし、川島の鎮守として奉斎されてきた。落ち着いた雰囲気の境内には松がよく茂り、その中の一本には、珍しく「宿り木」が寄生している。昔から見れば、松も随分少なくなったといわれるが、それでも元荒川の水面に影を映す美しい社叢は、神の坐す所にふさわしい景観であるように感じられる。
また、明治初期までは、川島の集落から社殿に向かって、八〇メートルほどの一直線の長い参道がついていた。そのころは鳥居の手前(南側)には堀があり、太鼓橋が架かっていた。しかし、参道の辺りにも民家が増え始め、ついには参道そのものも住宅などの敷地になってしまい、昔の面影は失われてしまった。元荒川の揚水機小屋のある、境内南側の低くなっている所は、かつての堀の跡である。
『風土記稿』に「久伊豆社 村の鎮守なり、地蔵院持、末社 天神 荒神 稲荷 雷電」とあるように、当社は地内の地蔵院の持ちであった。神仏分離後、地蔵院は廃寺となり、その草葺きの建物は村の集会所として各種の会合の場として長い間使われ、太平洋戦争中は疎開者の住居にもなっていたが、老朽化が進んだために取り壊され、昭和四十年に公民館として生まれ変わった。公民館の中には、地蔵院の名残として本尊の延命地蔵が祀られている。(「埼玉の神社」より)
埼玉県・蓮田市掲示による川島久伊豆神社の由緒
川島・久伊豆神社神社
この久伊豆神社は、江戸時代後期(一八〇〇年代)に創立されたもので地域の人から農業の安全や豊作を祈る神(作神)として信仰をあつめている。祭神は大己貴命である。
「新編武蔵風土記稿」によれば、「久伊豆神社、村の鎮守にて地蔵院持」と記載されている。
久伊豆神社は、元荒川流域にのみ分布しており、東の「香取」、西の「氷川」圏と並び一祭祀圏をなしている。
市内には、久伊豆神社七社、系列の根金神社一社を加え合計八社が現存している。
「久伊豆」の読み方については、「ヒサイズ」と「クイズ」の両方があるが、この地方では、ほぼ「ヒサイズ」と読んでいる。
また、近郷の人には当社を「ぬすっと宮」と呼ぶ人が多い。この由来については諸説あるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだ。慈悲深い神は、これをかくまい、追手から逃がしてやったという。以来だれとはなしにこう呼ばれるようになったといわれている。
現在の拝殿は、昭和三年に改築されたものである。当時の工事費は八二五円であった。(埼玉県・蓮田市掲示より)
川島久伊豆神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)