休山寺。山形三郎兵衛昌景婦人が開基
休山寺の概要
曹洞宗寺院の休山寺は、石坂山と号します。休山寺は、甲斐武田二十四将の一人山形三郎兵衛昌景の婦人が、長篠の合戦で戦死した夫昌景(休山賢公大禅定門)菩提の為に創建したといいます。また当寺本尊釋迦如来坐像は、甲斐国から運ばれてきたと言われ、十一面観音立像とともに鳩山町有形文化財に指定されています。
山号 | 石坂山 |
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院号 | - |
寺号 | 休山寺 |
本尊 | 聖觀音像 |
住所 | 比企郡鳩山町石坂1262 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
休山寺の縁起
休山寺は、甲斐武田二十四将の一人山形三郎兵衛昌景の婦人が、長篠の合戦で戦死した夫昌景(休山賢公大禅定門)菩提の為に創建したといいます。山形昌景の娘は、武田二十四将の一員横田尹松に嫁いでおり、武田滅亡後徳川家康に召抱えられて石坂附近の領主だったことから、当地に創建したのではないかと推測され、横田家が江戸集住する以前は尹松、長子某・二男降松が当地に葬られていたことから、横田氏の菩提寺でもあったといいます。また当寺本尊釋迦如来坐像は、甲斐国から運ばれてきたと言われ、十一面観音立像とともに鳩山町有形文化財に指定されています。
「近世鳩山図誌」による休山寺の縁起
石坂村の休山寺
越辺川左岸の丘陵裾部を切り開いて開山。現集落からみると、その位置関係は集落の西端で、民家から孤立気味である。禅宗曹洞派で本尊は釈迦。開創経緯は『新記』に詳しい。日く、「当寺は昔甲州の士山形三郎兵衛昌景戦死の後其婦人土木の功を費し、夫昌景菩提の為に草創せしと、位牌に休山賢公大禅定門天正三年五月廿二日とあり、当寺の号は此法謚をとりしこと知べし」と。
若干の解説を施せば、引用中の山形三郎兵衛昌景は甲斐武田二十四将の上位の重臣で、位牌の没年天正三年五月廿二日は武田と織田・徳川連合軍による長篠の戦での戦死年月日。また「其婦人」に関しては出身は定かでないが、石坂村初代領主横田尹松の婦人(妻)は、山形昌景の女(子女)である。やはり武田二十四将の一員である横田氏は武田滅亡後徳川家康に召抱えられ、その後幕府の重臣として長く幕閣にとどまった。その主要な領地の一つが高坂から石坂である。したがって「其婦人土木の功を費やし、夫昌景菩提の為に草創せし」とは、この領主であり、昌景を岳父と仰ぐ横田尹松の援助を前提にしたものといえよう。また休山寺には、横田氏の古い墓石が数基建っていることから(「寛政重修諸家譜』)によれば、尹松長子政松、その長子某、同二男降松が葬地を休山寺とする)、横田氏にとっても休山寺は、とりわげ江戸集住以前には菩提寺であったことを教えている。
江戸期には十一面観音を本尊とする観音堂を付随していたようである。本尊釈迦如来とこの十一面観音はともに町指定文化財である。また鎮守愛宕社の別当寺である。境内には教恩碑(町指定史跡)があるが、これは寺子屋を大本として後の石坂学校に繋がる筆子塚である。(「近世鳩山図誌」より)
新編武蔵風土記稿による休山寺の縁起
(石坂村)
休山寺
禅宗曹洞派、入間郡龍ヶ谷村龍穏寺の末、石坂山と號す、本尊釋迦、相傳ふ當寺は昔甲州の士、山形三郎兵衛昌景戰死の後、其婦人土木の功を費し、夫昌景菩提の爲に草創せしと、位牌に休山賢公大禅定門天正三年五月廿二日とあり、當寺の號は此法謚をとりしこと知べし、されど甲斐國亀澤村天澤寺に、安ずる昌景が牌子には、好雲喜公禅定門とあり、開山は本寺十四世太鐘、慶長十九年正月廿八日寂せり、
鐘樓。鐘は延寶五年の鑄造なり、
觀音堂。十一面觀音たり(新編武蔵風土記稿より)
休山寺所蔵の文化財
- 休山寺の釋迦如来坐像(鳩山町指定文化財)
- 休山寺の十一面観音立像(鳩山町指定文化財)
- 横田家旗差物(鳩山町指定文化財)
- 休山寺の教恩碑(鳩山町指定文化財)
- 休山寺の半鐘(鳩山町指定文化財)
休山寺の釋迦如来坐像
休山寺は、甲斐武田二十四将の一人山形三郎兵衛昌景の婦人が、長篠の合戦で戦死した夫昌景の菩提を弔うために草創しました。言い伝えでは、本像は、甲斐から運ばれてきたと言われています。甲斐は、平安時代以来の多くのすぐれた仏像を遺す地域です。
本像は、休山寺の本尊で、寄木造、彫眼からなり、像高一五〇センチを測る等身大より少し大き目の半丈六の木彫像です。やや肉付きのあるゆったりとした穏やかな面貌、緩やかに張った両肩、幅広で彫りの浅い衣文、平らで薄い膝の造りなどには、平安時代後期に全国で流行した定朝様式の特徴を見い出すことができます。町内でも傑出した仏像です。(鳩山町教育委員会掲示より)
休山寺の十一面観音立像
本像は、像高三三センチの小柄な十一面観音像で、像身の大半を竪一材から彫り出した一木造、彫眼の像です。やや頭部の大きい四等身ほどの像容は、一木造らしい簡潔素朴な作風を示し、肉身部以外は細部の彫りを省略していることから、当初は彩色像であったと考えられます。定朝様式以前の古式な姿を見せており、一部地方化が認められますが、年代的には十一世紀代にさかのぼる、県内の平安仏でも古手に属する一例で、比企地方では最古級の仏像です。
本像は休山寺の客仏ですが、詳しい伝来は明らかでありません。(鳩山町教育委員会掲示より)
休山寺の周辺図
参考資料
- 「近世鳩山図誌」
- 新編武蔵風土記稿