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若泉稲荷神社。本庄市北堀の神社

若泉稲荷神社の概要

若泉稲荷神社は、本庄市北堀にある神社です。若泉稲荷神社は、武蔵守維行六世孫荘太郎家長が東本庄に館を構えた際、治承4年(1180)当社より500メートル南東にある稲荷神社の地に居館の鎮守として創建したと伝えられます。徳川家康の関東入国に伴い、領主となった小笠原掃部太夫信嶺が本庄域主になった際、旧領主本庄氏が勧請した当社を当地に奉遷して社殿を建立、庄名より若泉稲荷神社と称するようになったといいます。江戸期には北堀村の鎮守として祀られ、明治維新後には村社に列格していました。

若泉稲荷神社
若泉稲荷神社の概要
社号 若泉稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 八坂社、手長社、秋葉社、天神、護国社、護国社、八海山・御嶽・三笠山、氏神社
祭日 初午祭、祈年祭、護国祭、春大祭4月、八十八夜、お祇園、大祓、護国祭、秋祭、お手長様、新嘗祭
住所 本庄市北堀209
備考 若泉幼稚園



若泉稲荷神社の由緒

若泉稲荷神社は、武蔵守維行六世孫荘太郎家長が東本庄に館を構えた際、治承4年(1180)当社より500メートル南東にある稲荷神社の地に居館の鎮守として創建したと伝えられます。徳川家康の関東入国に伴い、領主となった小笠原掃部太夫信嶺が本庄域主になった際、旧領主本庄氏が勧請した当社を当地に奉遷して社殿を建立、庄名より若泉稲荷神社と称するようになったといいます。江戸期には北堀村の鎮守として祀られ、明治維新後には村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による若泉稲荷神社の由緒

(北堀村)
稲荷社二宇
一は村の鎮守なり。西五十子村理聖院持、一は日光院持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による若泉稲荷神社の由緒

若泉稲荷神社<本庄市北堀二〇九(北堀字本田)>
本庄城を築城した本庄宮内少輔実忠は、弘治二年(一五五六)北堀と栗崎にまたがる東本圧館から当城に移ったという伝承があり、この館が本庄氏の築城前の居館と考えられている。当社はこの東本庄館跡の南西二〇〇メートルほどの所に鎮座している。
社伝によれば、当社は治承四年(一一八〇) 武蔵守維行六世孫荘太郎家長が東本庄に館を構えた際、鎮守として勧請したことに始まる。天正十八年(一五九〇)に、本荘氏に代わって小笠原掃部太夫信嶺が本庄域主になった時に、旧領主が勧請した社であるとの理由から当社を最も崇敬し、現在の社地に社殿を建立して奉遷すると共に、その庄名を冠して若泉稲荷神社と称するようになった。その後、慶長十七年(一六一二)に小笠原左衛門尉信之が社殿を営繕し、降って元禄十五年(一七〇ニ)、氏子及び信徒が修繕を行った折には、大平・柴村・加藤・野呂・花房の地頭諸氏から寄附があった。また、旧本庄城主の祖が祀った社との縁から、明和七年(一七七〇) と天明六年(一七八六)の修繕の際には、本庄町から彫物などの寄進があった。
『風土記稿』北堀村の項には「稲荷社二宇 一は村の鎮守なり、西五十子村理聖院持、一は日光院持」とあり、このうち当社は理聖院持の稲荷社である。旧理聖院の諏訪家で所蔵する天明六年(一七八六)の勧進帳によれば、本庄城主小笠信之が病気平癒を北堀村の稲荷神社の別当修験文殊院に命じ、無事成就の後に利生院号を下賜され、これを記した伊奈利別当修験正楽院がその九代自に当たるという。現宮司の稲山家は西五十子の理聖院の隠居分家である。
当社が最初に奉斎された東本庄の社地は、現在の境内から五〇〇メートルほど南東にあり、今も稲荷神社が祀られている。この稲荷神社は、当社の奥宮として意識されているもので、明治四十二年に一旦当社に合祀されたが、先代の宮司の稲山末雄の夢枕に稲荷神が現れ、「帰りい」と告げたことから旧地に戻されたものである。なお、この稲荷神社は、東本庄館跡の裏鬼門(南西)の方角に位置するため、初めは館の鬼門除けとして祀られていたものと思われる。(「埼玉の神社」より)


若泉稲荷神社の周辺図