産泰神社。児玉党の四方田五郎左衛門資綱が創建
産泰神社の概要
産泰神社は、本庄市四方田にある神社です。産泰神社は、武蔵七党のうちの一党である児玉党の一族の四方田五郎左衛門資綱が、この地に砦を築いたときに、守護神として勧請し創建したと伝えられ、延元2年(1337)には北畠顕家が薊山合戦の際、戦勝を祈願したところ、勝利をおさめることができたので兜を奉納したといいます。
社号 | 金佐奈神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 本庄市四方田289 |
備考 | - |
産泰神社の由緒
産泰神社は、武蔵七党のうちの一党である児玉党の一族の四方田五郎左衛門資綱が、この地に砦を築いたときに、守護神として勧請し創建したと伝えられ、延元2年(1337)には北畠顕家が薊山合戦の際、戦勝を祈願したところ、勝利をおさめることができたので兜を奉納したといいます。
境内掲示による産泰神社の由緒
産泰神社
産泰神社の創建は、鎌倉時代、武蔵七党のうちの一党である児玉党の一族の四方田五郎左衛門資綱が、この地に砦を築いたときに、守護神として勧請し祀ったのが始まりと伝えられる。その後の延元2年(1337)、北畠顕家が薊山合戦の際、戦勝を祈願したところ、勝利をおさめることができたので兜を奉納して深く感謝したという。
元禄年間(1688-1704)にはいると京都吉田家の配下であった神主の杉田氏が奉仕するようになり、今でもその子孫は代々神主をつとめている。
なお、当社は女性の守護神として広く信仰を集め、毎年4月4日の例祭日には、近郷近在はもとより他県からも多くの参詣客が集まり、安産を祈って底のない柄杓を奉納する慣習がある。なお当日は本庄市指定文化財となっている杉田組による金鑚神楽が奉奏される。(埼玉県・本庄市掲示より)
新編武蔵風土記稿による産泰神社の由緒
(四方田村)
金鑚神社
吉田家の配下、杉田摂津の持。村の鎮守なり。
末社。神明、稲荷、天神。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による産泰神社の由緒
金佐奈神社<本庄市四方田二八八-一(四方田字宮東)>
四方田は、武蔵七党の児玉党に属した四方田氏の本貫地であった。
地内の「掘の内」には同氏の居館であったと伝えられる館跡があり、当社の境内はこの館跡の東端に当たる。こうした立地からも、当社の創建には四方田氏が深くかかわっていることが推測できる。
『児玉郡誌』によれば、四方田五郎左衛門資綱がこの地に城砦を築いた際に、その守護神として勧請したものであるという。また、同書は更に、延元二年(一三三七)に北畠顯家が薊山合戦の時、当社に戦勝を祈願して勝利を収めることができたので、奉賽として兜を奉納したことや、元禄年間(一六八八-一七〇四)以来、地元の杉田家が代々神職として奉仕してきたことを記している。『風土記稿』四方田村の項に「金鑽神社吉田家の配下、杉田摂津の持、村の鎮守なり」とあるのも、杉田家による祭祀が確固たるものであったことを示しており、同家には元禄十一年(一六九八)以降の裁許状六通の写しがある。ちなみに、明治以降も、神職は杉田家が伊勢守・嘉内・力衛・右一・泉司と代々継いで、現在に至っている。
なお、当社は、一般に「産泰様」として知られているが、これは当社が産泰神社との合殿になっており、後述するように産泰神社の信仰が盛んであったことによるものである。そのため大正十年ごろ「金佐奈産泰神社」と社名を変更しようとしたが、実現には至らなかった。(「埼玉の神社」より)
産泰神社所蔵の文化財
- 金鑽神楽・杉田組(本庄市指定文化財)
産泰神社の周辺図