建御雷神社。上野国板倉の雷電神社を勧請
建御雷神社の概要
建御雷神社は、春日部市備後東にある神社です。建御雷神社は、寛文年間(1661-1673)村内の森泉金左衛門の所有地に落雷があったことから、上野国板倉の雷電神社を勧請して創祀したといいます。明和年間(1764-1772)には備後村下組の鎮守として祀られるようになり、明治初年に社号を建御雷神社と改めています。
社号 | 建御雷神社 |
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祭神 | 別雷命 |
相殿 | - |
境内社 | 三峰社・富士浅間大神 |
祭日 | 例大祭7月15日に近い土日曜日 |
住所 | 春日部市備後東5-10-48 |
備考 | - |
建御雷神社の由緒
建御雷神社は、寛文年間(1661-1673)村内の森泉金左衛門の所有地に落雷があったことから、上野国板倉の雷電神社を勧請して創祀したといいます。明和年間(1764-1772)には備後村下組の鎮守として祀られるようになり、明治初年に社号を建御雷神社と改めています。
新編武蔵風土記稿による建御雷神社の由緒
(埼玉郡備後村)
雷電社
是も鎮守とす、村民の持ち
末社天神(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による建御雷神社の由緒
建御雷神社<春日部市備後東五-一〇-四八(備後字大道東)>
備後は、大落古利根川に沿って開かれた農業地域で、地内には、須賀・上・中・下といった村組が古くから形成されている。当社は、そのうちの下組が祀っている神社であり、通称を「雷電様」というように、元来は雷電社と称していたが、明治初年に現在の社号に改めた。
社伝によれば、当社は、寛文のころ(一六六一-七三)、備後の村内の森泉金左衛門の所有地に落雷があり、そこに上野国の雷電神社(群馬県邑楽郡板倉町鎮座)の分霊を祀ったのが始まりであるという。その後、元禄十年(一六九七)の検地の際に除地となり、更に、明和年間(一七六四-七二)には下組の鎮守として祀るようになった。『風土記稿』備後村の項に「雷電社 是も鎮守とす、村民の持」とあるのは、そうした状況を表したものである。ただし、社格制定に際しては、当社に比べて氏子の多い須賀組の稲荷神社が備後村の村社となったため、当社は無格社にとどまった。
現在の社伝は、明治期に再建されたというが、その年代は明らかではない。また、本殿には、神鏡や金幣と共に残存高一八・五センチメートルの木製の神像が安置されている。この像は挿し首になっており、首を胴体から外すと頭部が前後に分かれ、そのうち後ろ部分の内側には、安永九年(一七八〇)の墨書銘があるが、残念ながら鼠にかじられ、全文は残っていない。(「埼玉の神社」より)
建御雷神社の周辺図