粕壁神明社。春日部市粕壁の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

粕壁神明社。九法四郎兵衛が氏神として創祀

粕壁神明社の概要

粕壁神明社は、春日部市粕壁にある神社です。粕壁神明社は、天明年間(1781-1789)または明和2年(1765)に当地の豪族九法四郎兵衛が土中から神体を発掘、九法家の氏神として祀られていたものの、九法家の廃絶により、名主の見川家の邸内の一部となったといいます。宿場の守り神として信仰を集め、現在では、「疫病封じ」として始められた例祭と、「春日部のお酉様」とも称される新穀感謝祭が行われています。

粕壁神明社
粕壁神明社の概要
社号 神明社
祭神 天照大神
相殿 -
境内社 見川稲荷
祭日 例祭7月21日、春日部のお酉様12月14日
住所 春日部市粕壁1-8-3
備考 -



粕壁神明社の由緒

粕壁神明社は、天明年間(1781-1789)または明和2年(1765)に当地の豪族九法四郎兵衛が土中から神体を発掘、九法家の氏神として祀られていたものの。九法家の廃絶により、名主の見川家の邸内の一部となったといいます。宿場の守り神として信仰を集め、現在では、「疫病封じ」として始められた例祭と、「春日部のお酉様」とも称される新穀感謝祭が行われています。

境内掲示による粕壁神明社の由緒

粕壁神明社の歴史
天明年間(一七八一-八九)に地元の豪族九法四郎兵衛が竹藪の土中から厨子に入った神体と鏡が出てきたので祠を建てて祀ったのが当社の始まりであるという。
当社は七月二十一日の例祭と十二月十四日の新穀感謝祭の年2回の祭りが行われる。
例祭は、かつて伝染病がおそれられていたころ、「疫病封じ」としてはじめられたという。
新穀感謝祭は、明治以降は商売繁盛を願う祭りとなり、「春日部のお酉様」として大宮氷川神社の「十日市」に続く酉の市で、福熊手を売る露店が並び、多くの参詣者が訪れる。
当社は、元来は個人持ちの社であったが、やがて宿場の守り神として多くの人々の信仰を集めるようになった。
氏子は、現在上町、春日町、仲町の三町内で、ほかに「神明講」の人々も、年2回の祭典に参列している。(粕壁神明社掲示より)

新編武蔵風土記稿による粕壁神明社の由緒

(埼玉郡粕壁宿)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による粕壁神明社の由緒

神明社<春日部市粕壁一-八-三(粕壁町字山中)>
社伝によれば、天明年間(一七八一-八九。明和二年とする説もある)に地元の豪族九法四郎兵衛が分家をするために竹藪を開墾していたところ、土中から厨子に入った神体と鏡が出てきたので、祠を建ててそれらを祀ったのが当社の始まりであるという。以後、当社は九法家の氏神として祀られてきたが、いつしか同家が絶えてしまったため、社地は名主の見川家の邸内の一部となった。
しかし、この出土した神体もいつのころか盗まれていまい、現在、本殿の内陣に安置されている像高二二・五センチメートルの雨宝童子立像(天照大御神の本地仏)は、後年に作り直したものであるという。神体が出土した竹藪については、「古くはそこに堂があったが、朽ちてなくなってしまった」との言い伝えもあるため、これらの話がすべて事実であるとするならば、九法四郎兵衛が見つけた神体は、元来はこの堂に祀ってあったものなのかも知れない。
現在、境内の周辺は春日部駅東口周辺の市街地の一角になっているため、竹藪であったという往時の面影は全くない。更に、昭和六十年ごろに区画整理によって境内地が役五〇メートル南方に移動した際、社殿も新築され、雰囲気がずいぶん明るくなった。ちなみに、この区画整理の際に、境内にビルを建ててその屋上に祀ってはとの誘いもあったが、伝統ある「お酉様」ができなくなるとの理由から断った。(「埼玉の神社」より)


粕壁神明社の周辺図