武里中野稲荷神社。もと鎮守香取社の末社
武里中野稲荷神社の概要
武里中野稲荷神社は、春日部市武里中野にある神社です。武里中野稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、大場村から分村して成立した中野村の鎮守香取社の末社として祀られていたといいます。明治維新後、香取社が末社となり、稲荷社として村社に列格、明治45年に境内末社の香取神社と雷電神社を合祀したものの、今なお地元では香取様と通称しているといいます。
社号 | 稲荷神社 |
---|---|
祭神 | 宇迦之御魂神 |
相殿 | 経津主命、別雷命 |
境内社 | 稲荷、天神4、疱瘡神、荒神 |
祭日 | おびしゃ1月19日 |
住所 | 春日部市武里中野63 |
備考 | - |
武里中野稲荷神社の由緒
武里中野稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、大場村から分村して成立した中野村の鎮守香取社の末社として祀られていたといいます。明治維新後、香取社が末社となり、稲荷社として村社に列格、明治45年に境内末社の香取神社と雷電神社を合祀したものの、今なお地元では香取様と通称しているといいます。
新編武蔵風土記稿による武里中野稲荷神社の由緒
(埼玉郡中野村)
香取社
村の鎮守なり、寶性院持、
末社、愛宕、稲荷(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による武里中野稲荷神社の由緒
稲荷神社<春日部市中野六三(中野字根)>
村の開発は、『風土記稿』中野村の項に「当村も古へ大場村より分れしといへど、年代は定かならず」と記されている。
当社は、中野の中心からやや東寄りの地内でも一番の高台に鎮座しており、その南西に古くからの集落が広がっている。『風土記稿』には「香取社 村の鎮守なり、宝性院持、末社 愛宕 稲荷」と記されており、江戸期の当社は鎮守の香取社の末社として祀られていた模様である。また、別当の宝性院は東に隣接する真言宗の寺院で、中興開山を俊作といい、慶長元年(一五九六)に没したと伝える。
一方、『明細帳』では稲荷社が村社に列し、明治四十五年に境内社の香取神社と雷電神社を合祀した記事が見え、江戸期に本社・末社の関係であった香取神社を稲荷神社が明治期に入るとその地位を交替した。その理由は不明であるが、『明細帳』と同時期の『郡村誌』には村社は香取社が載り、稲荷社の社名は見えず、村社列格に際して混乱が生じたことをうかがわせ、香取様の通称からもそのことがわかる。
主祭神は宇迦之御魂神で、合祀神は経津主命と別雷命である。本殿には、寛政元年(一七八九)に神祇管領吉田家から拝受した「正一位香取大明神□□座」の神璽筥が奉安されている。
なお、昭和五十二年に中野会館が建設されるまでは、宝性院の本堂が祭礼の直会の会場であった。(「埼玉の神社」より)
武里中野稲荷神社の周辺図