梅田女體神社。春日部市梅田の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

梅田女體神社。織部という者が産土神として創祀

梅田女體神社の概要

梅田女體神社は、春日部市梅田にある神社です。梅田女體神社は、当地に住んでいた織部という者が、村内の子供の夭逝が多い事を憂えて延喜元年(901)伊弉冉尊を産土神として祀ったといいます。江戸期には梅田東の鎮守として祀られていました。

梅田女體神社
梅田女體神社の概要
社号 女體神社
祭神 伊弉冉尊
相殿 -
境内社 天満宮、稲荷、浅間大神
祭日 -
住所 春日部市梅田1-2-31
備考 -



梅田女體神社の由緒

梅田女體神社は、当地に住んでいた織部という者が、村内の子供の夭逝が多い事を憂えて延喜元年(901)伊弉冉尊を産土神として祀ったといいます。江戸期には梅田東の鎮守として祀られていました。

新編武蔵風土記稿による梅田女體神社の由緒

(埼玉郡梅田村)
女體社
二社ともに村の鎮守、以上粕壁宿仙乗院持、
末社稲荷(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による梅田女體神社の由緒

女體神社<春日部市梅田一-二-三一(梅田字東前)>
梅田は、日光街道粕壁宿の北に位置し、周囲を大落古利根川と古隅田川に囲まれた低湿地である。この梅田の地名は、「埋田」の意であるといわれ、村の開発に当たっては、こうした低湿地を埋め立てて田にしていったという。梅田の地内は、梅田東・梅田西・新田の三つに分かれており、当社はそのうちの梅田東の鎮守である。
社伝によれば当社は、醍醐天皇の延喜元年(九〇一)の創立で、当時、梅田に住んでいた織部という人が、村内の子供が幼くして亡くなることが多かったことを憂い、子供が健やかに育つようにと天神に祈願し、国生みの神である伊弉冉尊を産土神として祀ったのが当社の起源で、隅田川の北岸の最も高地に当たる場所(現社地)に社殿を造営し、祭事を行うようになったという。また、元和八年(一六二二)に二代将軍徳川秀忠が初めての日光社参に際し、街道筋の由緒ある社寺を訪ねた時、当社にも金千疋の寄付があり、以来、近隣の信仰を集めて大いに栄えたと伝えられる。
このほか、当社の歴史を示すものとして、元禄二年(一六八九)銘の鰐口、宝暦二年(一七五二)銘の金幣、天保六年(一八三五)に榛名山太々講中が奉納した手水鉢などがある。更に、明治四十年の「神社財産台帳」には寛政十一年(一七九九)に社殿を再建した際の棟札が記載されているが、現在は見当たらない。(「埼玉の神社」より)


梅田女體神社の周辺図