下広谷諏訪神社。川越市下広谷の神社
下広谷諏訪神社の概要
下広谷諏訪神社は、川越市下広谷にある諏訪神社です。下広谷諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、広谷村が上広谷村・下広谷村・五ヶ谷村に慶安元年(1648)に分村、下広谷村の鎮守社だったといいます。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | 神明社 |
祭日 | - |
住所 | 川越市下広谷436-7 |
備考 | - |
下広谷諏訪神社の由緒
下広谷諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、広谷村が上広谷村・下広谷村・五ヶ谷村に慶安元年(1648)に分村、下広谷村の鎮守社だったといいます。
新編武蔵風土記稿による下広谷諏訪神社の由緒
(下廣谷村)
諏訪社
村の鎮守なり、七月廿奈々日神楽を奏し湯立あり、長松寺の持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による下広谷諏訪神社の由緒
諏訪神社<川越市下広谷一二八(下広谷字諏訪)>
下広谷は市の北西部、大谷川流域の低地・台地に位置し、慶安元年、広谷村が上広谷村・下広谷村・五ヶ谷村に分村して成立した。
鎌倉期の構築という城跡三カ所があり、南北に縦貫する市道は、旧鎌倉街道として秩父辺から川越及び江戸へ通じる道であったといわれ、その名残として大谷川に鎌倉橋が架かる。「大尽」の屋号を持つ大塚家の祖先が当地の草分けといわれる。
祭神は建御名方命である。由緒は、口碑に「いつのころかは明らかでないが、信州の諏訪神社を勧請したものである」というのみである。『風土記稿』には「村の鎮守なり、七月廿七日神楽を奏し湯立てあり、長松寺の持」とある。別当を務めた真言宗広林山長松寺は、明治期に廃寺となり、現在、長松寺前の地名だけが残る。神仏分離以降、祀職はその直後は不明であるが、上戸興善、新井治八、宮本豊太郎と継いで現在に至っている。
『明細帳』には「明治四十一年十月廿一目、同大字字宮廻り無格社神明社ヲ境内神社トシテ移転ス」と記すが、現在境内にある神明神社は昭和五二年に「神明の家」と呼ばれる滝島家の屋敷鎮守を移転したものであり、当時の合祀は書類上のものに終わったと考えられる。(「埼玉の神社」より)
下広谷諏訪神社の周辺図