鯨井春日神社。犬竹織部正平則久が創立した柊宮
鯨井春日神社の概要
鯨井春日神社は、川越市鯨井にある春日神社です。鯨井春日神社は、北条一族で川越三十三郷を領した犬竹織部正平則久が永正年間(1504-1521)に創立したと伝えられ、柊宮と呼ばれていたといいます。鯨井村字犬竹の鎮守として祀られています。当社の神事「犬竹の一升講」は、御馳走をたくさん食べる飽食神事の一つで、川越市無形民俗文化財に指定されています。
社号 | 春日神社 |
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祭神 | 武甕槌命、斎主命、天児屋根命、姫大神 |
相殿 | - |
境内社 | 御嶽社、稲荷社、愛宕社 |
祭日 | 一升講1月9日、春祈祷4月9日 |
住所 | 川越市鯨井26 |
備考 | - |
鯨井春日神社の由緒
鯨井春日神社は、北条一族で川越三十三郷を領した犬竹織部正平則久が永正年間(1504-1521)に創立したと伝えられ、柊宮と呼ばれていたといいます。鯨井村字犬竹の鎮守として祀られています。
新編武蔵風土記稿による鯨井春日神社の由緒
(鯨井村)
春日社
寶勝寺持、犬竹の鎮守なり、
稲荷社(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による鯨井春日神社の由緒
春日神社<川越市鯨井26(鯨井字犬竹)>
入間川の土手際に南面して鎮座する当社は、永正年間に犬竹織部正平則久が創立したと伝える。古くは境内に柊の木が多かったために、柊宮あるいは柊様と呼ばれ、社蔵の『嘉永元年寄進帳』に「抑々当社春日大明神乃御事は世の人柊明神と御唱ひ立て相成侯疫病除第一の御守護」とある。
現存する元禄九年再建の棟札に「竹柴山別当寶勝寺現住月潤良雲」とあり、神社の後ろにあって明治初期廃寺となり観音堂のみ残る宝勝寺が別当だったととがわかる。また、明治二年の棟札には「神主中臣朝臣竹榮瑞穂」と還俗神勤したことが知られ、更に「祭神一御殿武甕槌命 二御殿斎主命 三御殿天児屋根命春日大明神是也 四御殿姫大神」と記されている。『明細帳』もこの四神を祭神としている。
犬竹織部正平則久は北条一族として、川越三十三郷を領したといい、当地に居住し犬竹と称し、その子孫は勢〆と名乗り今に至っている。棟札にも「願主瀕志目庄左衛門尉則重同姓織部則政」とある。また、別当の宝勝寺も古くは観音堂だけだったものを、則久が起立したと伝える。なお、『風土記稿』に「則久は永正十二年の没」とある。
口碑によると、境内に多くあった樹木は入間川の増水の折に伐採して杭とし、氏子の田畑の流出を防いだという。(「埼玉の神社」より)
鯨井春日神社所蔵の文化財
- 犬竹の一升講
犬竹の一升講
毎年一月九日、氏子の宿で行われる神事である。前夜の行事をオビシャ講といい、当日の行事を、イッショウコウ、イッショウグイともいう。春日神社は犬竹十六戸の氏神であって、疫病除けの神さまといわれる。オビシャ講は氏子の中の子どもや年寄・奉公人等が宿に集まって小豆粥をたらふく食べる行事である。一升講は当番の二軒の主人を除いて、他のブクのない氏子の家の代表者全員が宿に集まって行われる。宿では小豆の入ったアカノゴハンと入らないシロノゴハンを一人一升あてに炊き上げ本膳をすえて来客を待つ。ヤドマエの二人はオトリツギ、キウジヤクとも称して接待する。キウジツキの儀とはまず赤のご飯少々を給仕つきで軽く一箸で食べる。オテモリの儀とは客同士がテンコモリに盛りあげて、これを三杯食べる。オニギリの儀はさらに残ったご飯を全部食べて終る。古い飽食神事の一つである。(川越市教育委員会掲示より)
鯨井春日神社の周辺図