雪塚稲荷神社。川越市幸町の神社
雪塚稲荷神社の概要
雪塚稲荷神社は、川越市幸町にある稲荷神社です。雪塚稲荷神社は、江戸時代に狐の祟りを鎮めるために奉斎、大雪の日に因んで雪塚稲荷神社と称したといいます。

社号 | 雪塚稲荷神社 |
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祭神 | 雪塚稲荷大明神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 川越市幸町5-8 |
備考 | - |
雪塚稲荷神社の由緒
雪塚稲荷神社は、江戸時代に狐の祟りを鎮めるために奉斎、大雪の日に因んで雪塚稲荷神社と称したといいます。
「埼玉の神社」による雪塚稲荷神社の由緒
雪塚稲荷神社<川越市幸町五-八(川越字南町)>
城下町川越の中心にある当地は、江戸から明治にかけて六〇軒余りの町であったが、大阪堂島の米相場を左右した藩御用商人横田五郎兵衛を生み、明治二年には県下最初の国立銀行を当町に開業させた。一方文化面では幕末の女流歌人安斎教子、日本画の小茂田青樹、洋画の岩崎勝平、小説家の細田源吉などを輩出している。
当社の創始は、口碑に「江戸の昔、或る大雪の夜南町の通りへ一匹の白狐が現れたのを、町内の若衆数人が追い回して打ち殺し其の肉を食うとたちまち疫病にかかり、さらに毎夜大きな火の玉が街に現れるようになった。町の者は恐れてこれを白狐の崇りだとして、皮と骨を埋めて塚を築き、まれな大雪の日にちなんで雪塚稲荷神社と名付けて奉斎した」という。
明治六年四月一三日に本殿・拝殿を再建、同二六年三月一七日川越大火により本拝殿焼失、同三〇年四月二八日に本殿・拝殿を再営する。この時土中の神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納するという。
昭和五五年二月、社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され「雪塚稲荷神社遺躰・文政六癸未年二月十二日御霊昇天・同年三月十二日御霊祭日と定め同年同月同日雪塚稲荷神社と称す」の銘文があった。
祭神は雪塚稲荷大明神である。(「埼玉の神社」より)
雪塚稲荷神社の周辺図