鹿飼神明神社。松山城内の神明宮を勧請
鹿飼神明神社の概要
鹿飼神明神社は、川越市鹿飼にある神明神社です。鹿飼神明神社は、比企郡松山城内の神明宮を勧請して天正年間(1573-1593)に創建したと伝えられ、当地鹿飼が開発された当時より鎮守として祀られ、江戸期には寶幢寺が別当を勤めていました。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格しています。
社号 | 神明神社 |
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祭神 | 素盞嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | 御嶽社 |
祭日 | 春祈祷4月21日、お日待10月14・15日 |
住所 | 川越市鹿飼404 |
備考 | - |
鹿飼神明神社の由緒
鹿飼神明神社は、比企郡松山城内の神明宮を勧請して天正年間(1573-1593)に創建したと伝えられ、当地鹿飼が開発された当時より鎮守として祀られ、江戸期には寶幢寺が別当を勤めていました。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格しています。
新編武蔵風土記稿による鹿飼神明神社の由緒
(比企郡鹿飼村)
神明社二宇
一は村の鎮守なり、寶幢寺持、一は村持なり、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による鹿飼神明神社の由緒
神明神社<川越市鹿飼四〇四(鹿飼字鹿飼町)>
当地鹿飼の地名は、『風土記稿』に「正保の図には此辺ししためと載たる原野なり、よりて按ずるに寛永の頃までは、しばしば此辺御遊猟ありし地にて、其時に猪・鹿を爰に溜置し地なれば、国図にも載たるにや」と記され、領主が遊猟の際に、この地に猪や鹿を留置したことに由来するという。当地を含む旧植木村と呼ばれた入間川沿いの村村は、入間川の乱流地帯であるために、古くは川島領に属したこともあった。延宝八年の流路改削以来、毎年水害に見舞われたが、昭和二三年以降、堤防の整備が進み、現在では水害を被ることはない。
当社の祭神は天照皇大神で、天正年間比企郡松山城内の神明宮を移し祀ったと伝えられ、鹿飼開発当時よりの鎮守とされる。『風土記稿』に「神明社二宇 一は村の鎮守なり、実幢寺持、一は村持なり」とあり、当社は前者に当たる。後者の神明社は、現在、当地東部に石祠のみが立っており、これは、享保の飢饉の折、出没した悪者に殺害された人々の霊を祀ったものという。当社が“上の神明”と呼ばれるのに対して“下の神明”と呼ばれている。
明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となる。
社殿は口碑によれば、延享二年に再建したと伝えられるが、度重なる水害のため記録は失われて詳細は不明である。現在の社殿は、昭和三四年の伊勢湾台風で倒壊の後、再建したものである。(「埼玉の神社」より)
鹿飼神明神社の周辺図