上戸日枝神社。川越市上戸の神社

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上戸日枝神社。河越氏が新日吉山王宮として創建

上戸日枝神社の概要

上戸日枝神社は、川越市上戸にある日枝神社です。上戸日枝神社は、川越三十三郷の領主河越氏が、後白河法皇が永暦元年(1160)に勧請した京都東山新日吉神宮へ領地を荘園として寄進、自身は荘官となった際、新日吉山王宮として創建したといいます。寛元元年(1243)には北条時頼が当社へ社領を寄付を受けています。江戸期には上戸・鯨井・的場三村の鎮守として祀られ、明治5年には村社に列格、明治41年に地内の諸社を合祀しています。また、江戸城鎮守の山王日枝神社は、河越氏の分家江戸氏が当社を勧請したものです。上戸日枝神社

上戸日枝神社の概要
社号 日枝神社
祭神 猿田彦大神
相殿 -
境内社 八坂・八幡・疱瘡神社、大地主・御嶽・白山神社、八坂神社、神明神社、戸衛神社
祭日 -
住所 川越市上戸316-1
備考 -



上戸日枝神社の由緒

上戸日枝神社は、川越三十三郷の領主河越氏が、後白河法皇が永暦元年(1160)に勧請した京都東山新日吉神宮へ領地を荘園として寄進、永暦2年(1161)自身は荘官となった際、新日吉山王宮として創建したといいます。寛元元年(1243)には北条時頼が当社へ社領を寄付を受けています。江戸期には上戸・鯨井・的場三村の鎮守として祀られ、明治5年には村社に列格、明治41年に鯨井字西原の御嶽神社・愛宕神社、同字天王の八坂神社及び同社境内社の浅間神社・御嶽神社、上戸字天王の神明社・八坂神社を境内へ合祀、本殿に鯨井字西原の首頭神社、同字鴈田の神明社・第六天社を合祀しています。また、江戸城鎮守の山王日枝神社は、河越氏の分家江戸氏が当社を勧請したものです。なお、『明細帳』では貞観年間(859-877)の草創を伝えており、他の社記でも修行僧が日吉大社の勧請を伝えるなど、永暦元年(1160)に何らかの社が祀られていた可能性を示唆しています。

境内掲示による上戸日枝神社の由緒

日枝神社(新日吉山王宮)の由来
後白河天皇は、永暦元年(一一六〇)皇居の守護神である山王七社の神々を、比叡山東坂本の日吉大社から京都の東山に迎えて新日吉神宮としました。同年、河越氏は、河肥三十三郷を荘園として後白河法皇に寄進し、自らは荘官として力を振うこととなりました。このため、川越荘内(上戸)に新日吉山王宮が勧請されました。
江戸館の主である江戸氏は、河越氏の分れであることから貞治元年(一三六二)に江戸館を築いた時に、河越氏の氏神様である上戸の新日吉山王宮(山王様)の分霊社を江戸館の鎮守社として遷し祀りました。これが東京の赤坂にある日枝神社であります。
本殿(川越市指定文化財建造物)は、大型の一間社流造で、木割が太く、つくりはしっかりしています。妻飾り・組物・内法長押には極彩色が施されており、背面板壁に菊花紋、側面板壁に菊水紋が描かれていた痕跡があります。装飾が控えめで、保守的・伝統的な近世前期の神社本殿の形式を伝えています。
なお、日枝神社の由緒書きによると、本殿の造営は、貞享三年(一六八六)とあります。(境内石碑より)

新編武蔵風土記稿による上戸日枝神社の由緒

(上ハ戸村)
山王社
大廣院持、當社は上ハ戸・鯨井・的場の三村、惣鎮守にして例祭九月十九日なり、社地には松栢茂生じ神さびたる地にして、松の大なるもの圍一丈一二尺許なるを始とし、數十百株に及べる松林あり、其下は青苔滑かにして、餘木なく榊のみにて、殊勝の景地なり、又西に續きて丸山と云るは、砦の跡なりと云、此所は草木生茂りて、土手堀切の跡あり、又當社の古鐘、今川越の養壽院にあり、何故に移せしやその来由を傳へず、銘文の略に曰、武蔵國河肥庄新日吉山王宮、奉鐫推鐘一口、長三尺五寸、大檀那平朝臣經重、大勸進阿闍梨圓慶、文応元年云々、
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神明社
大廣院持、下同じ、
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天王社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による上戸日枝神社の由緒

日枝神社<川越市上戸三一六-一(上戸字山王原)>
上戸の地は、川越市西部の入間川と小畦川とに挟まれた所である。
当社は、往時新日吉山王権現と称し、『明細帳』には「貞享三丙寅年秋九月隠士航譽ナル者誌セシ縁起書ニ云ク往古貞観年中ノ創立」とあり、平安初期の創建を伝えており、また、他の社記によると陸奥国の住人休慶という修行僧が、京都比叡山麓にある日吉山王を深く信仰し、神示により武蔵野のこの地に社を建立したとある。
しかし、川越三十三郷と称された河肥庄の庄司であった河肥氏の館跡が、上戸の地(現在の常楽寺境内の辺り)であるといわれていること、また河肥庄が新日吉社の社領とされていたこと、更に往時の社号が新日吉山王権現であったことなどを勘案するに創建年代は『明細帳』の記載よりも下るものとも考えられる。すなわち、新日吉山王権現の本社である新日吉神社は、永暦元年、近江にある日吉大社の信仰が厚かった後白河上皇が、京都東山七条の法住寺殿の一画に勧請し、以来、皇室による御幸は一一九度に及ぶほどの社であった。この新日吉神社と当地を結ぶのが河肥氏である。永暦二年に新日吉神社領となり、河肥荘の荘司であった河肥氏が、平氏の一門で、平氏は日吉神社を氏神として信仰していたことにより館のある上戸の地に京都から新日吉神社を勧請して新日吉山王権現と号したものと思われる。
社記によると、寛元元年北条時頼が当社に報賽し、社殿の再営に合わせて田畑の寄附を行っている。
河肥太郎重頼の曾孫遠江守経重の開基となる川越市元町にある養寿院には、開基の前年、当社に奉献されたと思われる「武蔵国河肥庄新日吉山王宮 奉鋳錘鐘一口長三尺五寸 大檀那平朝臣経重 大勧進阿闍梨園慶 文應元年 大歳 庚申 十一月廿二日(以下略)」の銘文のある洪鐘(重要文化財)がある。『明細帳』には「文応元庚申年平朝臣経重別ケテ奉崇敬リ」とあり、更に『郡村誌』によると養寿院境内には古く山王社が祀られ、明治の神仏分離により門前稲荷社(現豊川稲荷社か)に合祀したことが知られる。これらのことから、経重が養寿院に当社を分霊し、当社に洪鐘を寄進したものと考えられる。
江戸城の鎮護として仰がれた日枝神社は、以前より川越喜多院の日枝神社を文明一〇年太田道灌によって勧請されたものとして伝えられたが、『日枝神社史 全』(昭和五四年刊)によると紀伊国熊野那智大社に蔵する米良文書の貞治元年一二月の願文に「江戸郷山王宮」の名が見られることにより文明一〇年よりも一一六年前には江戸に山王宮が祀られていたことが知られる。この山王宮はその帰依者秩父氏・河越氏・江戸氏によって江戸館の鎮守社として当社より勧請され、代々崇敬を受けたもので、徳川家康の入城以前より江戸城内に祀られていたことが知られ、太田道灌の江戸城の築城により再興されたものであるとあり徳川家ではこの山王宮を産土神として祀るなど幕府直轄社として尊崇した。これによって、当社は慶安元年に社地境内畑九反六畝六歩が除地されている。
明治元年九月、社号を新日吉山王権現から日枝神社と改め、同五年には上戸・鯨井・的場三カ村の鎮守として村社となった。
祭神は大山咋命・大己貴命で、合祀神は大御食都命・少彦名命・大日孁貴命・大屋毘古命である。
本殿は一間社流造りで、内陣には漆塗りに金属の飾りをあしらった宮型厨子に金箔押幣帛を安置する。以前このほかに日吉の本地である阿弥陀三尊を刻した懸仏も安置したが、現在は総代により管理されている。厨子の両脇には正徳元年の木製眷属像(猿)がある。
境内社には、大地主神社・白山神社・戸衛神社が古くからある。このほか、明治四一年に鯨井字西原の御嶽神社・愛宕神社、同字天王の八坂神社及び同社境内社の浅間神社・御嶽神社、上戸字天王の神明社・八坂神社を境内に合祀し、本殿に鯨井字西原の首頭神社、同字鴈田の神明社・第六天社を合祀している。
祀職は『風土記稿』に「大広院 本山修験、入間郡越生村山本坊配下なり、日吉山と号す、日吉山王の別当なり、社地の東に接して除地の内にをれり、本尊は不動木の立像長二尺三寸、慈眼大師の作」とある。この大広院は神仏分離により復飾して上戸姓を名乗り昭和三四年まで神職を務める。同家には修験の名残を示す弘化三年銘の不動明王の掛軸が二幅蔵されている。また、現在の社務所は以前の大広院であるという。(「埼玉の神社」より)


上戸日枝神社所蔵の文化財

  • 上戸白髭神社本殿一棟(川越市指定有形文化財)
  • 上戸白髭神社懸仏(川越市指定有形文化財)
  • 上戸白髭神社境内(川越市指定史跡)
  • 鯨井の万作(市指定無形民俗文化財)

上戸日枝神社の周辺図