大堀山館跡|縄文時代前期の貝塚
大堀山館跡の概要
大堀山館跡は、川越市にある名所旧跡です。大堀山館跡は、明治38年に建設された水量を制御する施設です。レンガと石材・鉄材を組合せて造られたもので、明治時代の近代化の過程を伝える文化遺産となっています。
名称 | 大堀山館跡 |
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みどころ | 県指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 川越市下広谷332-1 |
備考 | - |
大堀山館跡の由緒
大堀山館跡は、戦国時代に築かれた館跡です。館主は不詳ながら、当地は鎌倉街道と児玉往還が通っていることから、川越城に属した砦だったのではないかとも記されています。
境内掲示による大堀山館跡について
大堀山館跡
大堀山館跡は、今から約五百年ぐらい前の戦国時代に築かれた城跡です。一辺約二百メートル、三重の堀と土塁で囲まれた方形を呈し、この種類の城跡としては埼玉県内で最大級の規模と良好な保存状態を誇ります。
関東の覇権をめぐり争われた戦国時代、交通の要衝を押えることは軍事的・経済的に見て重要な戦略のひとつでした。
大堀山館跡の周辺を見ると、すぐ東には、中世の南関東と北関東を結ぶ主要ルートの鎌倉街道が通っていました。またすぐ西を通る県道は、扇谷上杉氏の川越城と鉢形城(寄居町)、山内上杉氏の五十子陣(本庄市)をつなぐ当時のルートと重なります。
つまり大堀山館跡は、戦国時代の関東における主要なふたつのルートの交わる重要な拠点を押えるという役割を担って築かれた城であったと推定されます。(川越市教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による大堀山館跡について
(下廣谷村)
古跡三ヶ所
土人城の跡と唱て何人の居城なることを傳へず、一は村の東北にあり、東西北の三方の堀は二重なり、深六尺許、南の方は一重なり、深一丈許、南面に構しと見えたり、東西の堀長六十間、南北の堀長百間許、一は村の中程にあり、東西の堀長三十間、南北の堀長七十間、深さ六尺許、東は二重堀、西南北は一重堀なり、是も南面の構と見ゆ、一は村の東にあり、堀の長三十間、深三尺許、土人是を構山と云、以上の城地平坦にして、林樹叢生す、此所より南に當り廿町許を隔て、上ハ戸村に壘址あり、川越城を去こと二里餘、斯る地形なれば、是邊執れ川越城に屬せし砦などの跡ならんか、(新編武蔵風土記稿より)
大堀山館跡の周辺図