川越城跡|川越市郭町の名所旧跡

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川越城跡|太田道真・道灌父子が築城、松平信綱が拡張整備

川越城跡の概要

川越城跡は、川越市にある名所旧跡です。川越城跡は、明治維新後に取り壊された川越城の遺構で埼玉県旧跡に指定されています。川越城は、扇谷上杉持朝の家臣太田道真・道灌父子が長禄元年(1457)に築城、対立していた古河公方足利成氏に対する拠点となっていました。その後、勢力を拡大した小田原北条氏に攻めこまれた扇谷上杉氏は、川越合戦で大敗、北條氏の支配を盤石としました。徳川家康が天正18年(1590)関東に入国すると、酒井重忠を城主に任命、寛永16年(1639)に川越城主となった松平信綱が、手狭だった川越城を整備し、8つの郭を有する城郭に拡張しています。本丸には、徳川将軍が鷹狩りなどで訪れた際に使用する「御成御殿」があり、城主の御殿は二ノ丸に置かれていましたが、弘化3年(1846)に城主御殿が焼失、本丸に城主御殿を再建しています。

川越城跡
川越城跡の概要
名称 川越城跡
みどころ 史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 川越市郭町2-27
備考 -




川越城跡の由緒

川越城跡は、明治維新後に取り壊された川越城の遺構で埼玉県旧跡に指定されています。川越城は、扇谷上杉持朝の家臣太田道真・道灌父子が長禄元年(1457)に築城、対立していた古河公方足利成氏に対する拠点となっていました。その後、勢力を拡大した小田原北条氏に攻めこまれた扇谷上杉氏は、川越合戦で大敗し、瀧山城主大石源左衛門、鉢形城主藤ら右衛門佐なども帰伏し、北條氏の支配を盤石とし、川越城は大道寺駿河守直繁に守らせていました。豊臣秀吉の小田原攻めに際し、籠城に耐えられないとさとった直繁は城を出て降伏、徳川家康が天正18年(1590)関東に入国すると、酒井重忠を城主に任命、寛永16年(1639)に川越城主となった松平信綱が、手狭だった川越城を整備し、8つの郭を有する城郭に拡張しています。本丸には、徳川将軍が鷹狩りなどで訪れた際に使用する「御成御殿」があり、城主の御殿は二ノ丸に置かれていましたが、弘化3年(1846)に城主御殿が焼失、本丸に城主御殿を再建しています。

川越城本丸御殿しおりによる川越城富士見櫓跡について

川越城の歴史
川越城は、扇谷上杉持朝が長禄元年(1457)に太田道真(資清)・道灌(資長)父子ら家臣たちに命じて築城させた城です。当時、持朝は山内上杉房顕と連合し、古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していました。築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられます。
小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537)に川越城を攻め落としました。天文15年(1546)、扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏・古河公方と共に、川越城奪還を図りましたが、後北条軍の奇襲にあって大敗し(川越合戦)、後北条氏は北武蔵への支配を固めていきました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて降伏しました。同年8月、徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名たちが川越領を持つことになりました。
寛永16年(1639)、川越城主となった松平信綱は川越城の拡張整備を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸・追手曲輪・新曲輪などの各曲輪、3つの櫓、13の門からなる、総面積約9万9千坪(約32万6千㎡)余りの規模を持つ巨大な城郭になりました。(川越城本丸御殿しおりより)

川越城富士見櫓跡地掲示による川越城跡について

川越城跡
川越城は、長禄元年(一四五七)に太田道真・道灌父子によって築城され、上杉氏六代、北条氏四代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。
江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、八郭・三櫓、十二門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。
しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在ではこの富士見櫓の跡と、本丸御殿の一部が残るのみとなった。
富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた三重の櫓で、城内第一の高所として天守閣の代わりをつとめた。(川越市教育委員会掲示より)


新編武蔵風土記稿による川越城跡について

(河越城并城下町)
本丸
今は家作なし、南北に門あり、南にあるを天神門と呼ぶ、此門は昔この城高麗郡上戸にありし時の城門なりと云、北にあるを北門と云、櫓二ヵ所あり、西北の隅にあるを虎矢倉と云、二重の櫓なり、西南の隅にあるを富士見櫓と呼ぶ、この櫓城中第一の高き所なり、富士山目のあたりに見ゆればかく云なるべし、土居は北門より西の隅に至り、又虎矢倉より西南の隅富士見櫓に及び、ここよりをれて東の方天神門に至る、この門より又東の方へめぐり、それより北に至りて北門まですべてつきめぐらし塀をかく、其外に堀あり、古の地形を想像するに、この本丸の地よほど高くして要害の地なればここを譜の城として、今の二丸三丸あたりまでをとりいれきつきしものと見ゆ、御入國の後修築せられしにも、猶そのままにてありしを、寛永十五年の頃時の城主松平伊豆守信綱外曲輪をきづきて、今のごとくになりしなり。
二丸
本丸の北の郭にて、今城主の居所こゝにたてり、其家居は東へよりたる所にあり、こゝより南にあたりて本丸の北門あり、又東にも門あり、これを蓮池門と呼ぶ、又三丸へ出る所の門を二丸門と號す、これも上戸村より引移したる門なりと云、
菱櫓
家作の北にあり、二重櫓なり、これを菱矢倉と呼ぶ、その故を詳にせず、
三丸
本丸二丸の西にあり、北の方より西南へ推まはして、土手を築き塀をかく、其廻りに堀をめぐらせり、門は二丸へいる所に一ヵ所、西の方外曲輪へ出る所へ一ヵ所あり、是を三丸門と呼ぶ、是も當城上戸にありしときの門なりといひつたふ
外曲輪
三所あり、共に三丸の西なり、其三丸の堀に添たる所には、侍屋鋪作事役所等あり、門は六ヶ所あり、其一は前に云へる三丸へ通ずる門なり、西の端本町へ出る馬出の内に門あり、西大手と云、三丸門と西大手の間にあるを中門と云、此より南に因たる方に埋門あり、又本丸へ添て田曲輪へ通ずる門を田郭門と云、此門より少しく西により南大手の門あり、中門及び埋門の外に喰違の土手あり、此内にも侍屋敷あり、爰より外西大手の内、又一郭にて往来の左右は皆侍屋鋪なり、此外曲輪より田曲輪門を經、天陣門を入て本丸へ登れり、又三丸門・二丸門を經ても本丸へ登る、此外郭及び下の田曲輪・新曲輪は伊豆守信綱が築く所なり、
田曲輪
本丸の西南富士見櫓の下田曲輪門より東北の方新曲輪に接地まで、本丸の溝堀を廻りたる郭なり、此曲輪の東に清水門と云門ありて、城外への往来を通ず、
新曲輪
二丸の北新曲輪門より二丸本丸の構堀を廻りて、東南の方田曲輪の接地までの郭なり、この郭に米蔵及び郷蔵あり、田曲輪と北郭との外には、すべて土手をきづきて堀水めぐれり、其堀のつづき城背にあたれる所へ、よな川の水をそそぎかくれば、常に水かさ十分なり、 (新編武蔵風土記稿より)

川越城跡の周辺図